第53回  “九龍・キンバリーロード”

 
2008年 九龍・キンバリーロード


僕は万感の想いを籠めて、古ぼけたビルを睨んでいます。香港は九龍のキンバリーロード。去年に撮った写真ですが、なぜ僕は、逃げたいい女を見るような、こんな未練たらしい顔をしているのでしょう。

四十二年前の1967年、今では古ぼけた決して素敵とは言い難いビルは、当時ピカピカでした。二階に“シャンペンコート”というナイト・クラブが入っていたので、みんなに“シャンペンコート・ビル”と呼ばれていました。
当時の香港は、まだ中国に返還される前で、イギリス人の総督が支配していたのです。
石を投げたらゴロツキに当たると、ジョークにもならない言葉が囁かれていた、真にガラの悪かった九龍で、僕はミラマーホテルの隣りで、このシャンペンコートの筋向かいにあった、オーガストムーンホテルを常宿にしていました。
 ランランショーという映画屋の女優を、秘書兼愛人兼カントン語通訳にして、若かった僕は我が世の春を謳歌していたのです。なぜか当時の香港総督府は、スモールアームスという拳銃だけ重点を置いて取り締まっていたので、青龍刀にだけ気をつければ生きて行かれました。

そしてある日、突然、文化大革命の余波が、香港を襲います。後日この香港動乱の話になった時、アグネス・チャンは、“幼かった私を抱えて、母は物凄いスピードで走ったわ”と言いました。市民もゴロツキもアグネスのママも、みんな必死に逃げたのです。
すぐ口に入れられる食べ物は値上がりし、逆に女の値段と不動産は暴落しました。秘書のダフネは中国人とインド人のおまじりでしたが、“捕まるとイジメ殺されるから、台湾かシンガポールに逃げろ”と言ってくれました。
いきなりでは未練が残って死に切れませんが、五分あれば覚悟が決められた、その頃の僕です。しかしナブリ殺しは御免ですから、体を躱すことに決めたのです。懐には穀物相場で儲けたアブク銭が、唸りを発して詰まっていました。

とりあえず近場のマカオに逃げようとしていた僕に、不動産屋がシャンペンコートを買わないかと言ったのです。もう思い出したくありません。言ってもとても信じて貰えないような、とんでもない安値でした。
それから四十一年。七十一になった僕は、去年香港を訪れて、“なぜあの時、このビルを買わずに、持って逃げられる香炉なんか買ってしまったんだろう”と、浅ましい顔で見上げるのです。