第49回  “熱海”

 
昭和二十(1945)年
 熱海にて


この写真を撮って間もなく、日本はアメリカに負けて、戦争が終わりました。
父・正夫は、当時は昭南と言っていたシンガポールに出征していて、僕たちは母・玉枝に連れられて、熱海にあった母方の別荘に疎開していました。五反田の家はこの写真を撮るほんの数ヶ月前に、B-29の爆撃で燃えてしまったのです。
前にしゃがんでいるのが兄・博也で、僕より五歳年長ですから、小学六年生だった筈です。
四人の女の左の端は、昭和二十二年に結核で死んでしまった次姉の恵子。この当時は結核が不治の病でした。まだパスもストマイも無く、あったのは聖路加病院のセファランチンだけです。
よくこんな薬の名前を覚えていたものだと、僕は自分の記憶力に舌を巻きます。大事なことは片っ端から忘れるのに、変なことだけ覚えているのですから、矢張り僕は、どこかヘンテコなんです。
和服姿は、祖母の梶原うめです。母は僕と三十歳違いですから、この写真の頃は三十八歳でしたが、祖母は幾つだったのか僕には分かりません。
そして右の端が、長姉の福久子。先日、その姉と年子で生まれた三人の息子たちと、そのつれあいと一緒に御飯を食べたのですが、八十になろうかという長姉は、驚くほど元気でした。三人の年子も無事に大きくなって、長男はもう五十歳だというのですから、時の経つスピードに、僕はただただ息を呑んだのです。

僕は、真ん中でカボチャを持って立っています。食糧難でしたから庭で栽培したものなのですが、なぜ僕だけカボチャを持って立っているのか、不思議です。
将来を暗示しているのでしょうか?