第47回  “兄の婚礼”

 
昭和三十四(1959)年  
海運倶楽部


この手配写真の主役は僕ではありません。
映ってはいるもののオマケみたいなものですから、普段のように厳しく鋭い顔ではなく、現役のチンピラにしてはとても穏やかで、まるで当時の映画スター、アンソニー・パーキンスのスタンドインが務まるほどの色男です。
この写真が撮られたのは、ほぼ半世紀も前の昭和三十四年でした。今は霞ヶ関ビルが建っているところに、当時は華族会館という建物があって、その中の“海運倶楽部”で、僕の実家の兄が結婚式を挙げました。
僕が二十二歳でしたから、父正夫は五十七歳、母玉枝は五十二歳だったはずです。
この兄博也の結婚のお陰で、僕の人生は大きく変わるのですが、そんなことが予知できるようなら、僕はきっとノーベル賞を獲っていたのに違いありません。予知能力がまるで無いので、来賓のスピーチを無感動に聴いているんです。
チンピラをしていた僕に父は、「博也の結婚式の前は、せめて半年は家で寝起きしろ」と、言いました。嫁の実家の手前が、あったのでしょう。
そして、なぜかこの時だけは、僕は親の言い付けを素直に聞きました。この時もう前科が三つも四つもあって、父親にも反発していた僕なのに、なぜ、この時だけちゃんと聞いたのか、今になるとどうしても理由が思い出せません。

僕は毎朝、小鳥が啼き始める時間に奥沢の実家を出て、まず築地のヤッチャバで、値段が一番張るワサビの箱の用心棒をやり、昼前に新丸ビルの地下にあったポールスターでベイカーの見習いと、これはホンチャンだったパントリーをして、夕方の六時には新大久保の保善高校の夜学に通って、なんとか高校を卒業しました。兄の結婚式が無かったら、僕の学歴は中卒でした。
もし、兄の結婚式が、このタイミングで行われていなかったら、僕は高校も卒業せず、日本航空とも御縁がなく、ほぼ確実に四十歳までに、日本の盛り場でなければ、マニラか南米の何処かで、惨めに空しく死んでいたでしょう。
白い仔猫の写真をメールしてくれて、「この仔猫、アベ要らないか?」と訊いてくれた亀チャンとも、知り合う機会がなかった筈です。亀ちゃんとは、日本航空の訓練所が同期の古い友達です。

人生は、予知不能です。
今、無事に古稀を迎えた僕は、女房殿とウニという名の可愛い猫と、一緒に住んでいますが、約五十年前のこの年が、ひとつの転機だったなんて、本人はもちろん、神様にだって分かるわけはありませんでした。