第44回  “とんだ風邪見舞い”

 
世田谷 奥沢
1957(昭和三十二)年


母玉枝と末っ子の僕は、三十歳違いですから、この写真を写した時、母は五十歳で僕はハタチでした。当時のチンピラは、今より和服を着ることが多かったのです。
夏は浴衣の下は、褌と木綿のサラシで、履き物は下駄か草履でした。下駄は柾目がちゃんと十二本入った桐でなければ、他人様に笑われてしまうのですから、今より変なところで余分な経費が掛かりました。
サラシは窮屈でも、キリリと締めておかなければ、ドスで刺された時に、助かる命が助かりません。
この写真では、写らないようにしていますが、実を言えば、していた帯が安物で自慢できるようなものではありませんでした。
親分のしていた総絞りのヘコ帯だと、当時でも十万円はしたのです。
母は、当時はアッパッパと言った、綿の夏の普段着を着ています。ジャブジャブ洗って、軒下に二時間も干しておけば、すぐ乾きました。今ではアッパッパと言っても、五十過ぎの人でなければ、そんな言葉は通じません。 この頃、僕は父・安部正夫に勘当されていました。当時の古風な勘当ですから、父がいる時は家になんか入れません。母に会う時は、父の不在を電話で確認して、勝手口から家に入るのです。

ある日、風邪を引いて奥の座敷に、熱のある赤い顔で寝ていた母の枕元に「おふくろ、大丈夫か?」と覗き込んだら、その弾みで腰に差していた巨きな拳銃が枕に落ちてしまいました。
朝鮮戦争でアメリカ陸軍が遣っていた大型自動拳銃で、弾を込めると丁度一キロあるのが、突然ドスンと耳を掠めて枕に落ちたのですから、チンピラの母親も風邪なんか引いてはいられません。
母も驚いたのに違いありませんが、僕も仰天したのです。

それからというもの母は風邪を引く度に、ドジな末っ子は無事かと、想ったというのですから、なんという親不孝モンでしょう。
今年は行けませんでしたが、次のお盆には必ず須磨にお墓参りに参りますので、どうぞ御容赦ください。