第42回  “五十二年前の不良少年”

 
1955年 安宅の関


この写真は慶應高校の修学旅行で、歌舞伎の勧進帳で有名な石川県の安宅の関に行った時に撮ったものです。(僕は一番左です)
自分で言うのもナンですが、この頃の僕は本当に手の付けられない不良でした。

手配写真の第六回“慶應がお礼をくれた”と、第十五回“僕はどこに居るのでしょう”が、今回と同じ頃のどうしようもない、実の親も渡世の親も、それに家庭裁判所の判事まで、呆れ果てた安部直也です。
まるでブレーキが壊れたレーシングカーか、制御不能になったテポドンみたいでした。
それが証拠に、この写真を撮った直後に慶應高校を、退学ではなく除籍になって、それから高校を六つ転々として、1959年に夜学の東京保善高校を辛うじて卒業するのです。
よく古稀まで生きられたと、これも自分で言うのもナンですが、つくづくしみじみ思います。死にそうになったことも、殺されそうになったことも一度や二度じゃありません。

この写真に写っている他の三人の中で、まだお付き合いがあるのは、右から二人目の赤尾の健ちゃんだけです。健ちゃんは、「まだ付き合いがある……」なんて僕が言ったら、バチが当たります。
1983年に文章を書き始めて、86年にはブームが来たものの、僕が質の良くないマネジャーに苦しめられていた時、テレビ番組の制作会社をやっていた健ちゃんが、颯爽と現れて助けてくれたのでした。
そして、そのままバブルが弾けて、景気も僕の人気も収まるまで、ずっとマネジメントをやってくれたのです。
健ちゃんのお陰でゴルフも覚えたし、花札もサイコロも悪い癖はみんな抜けました。
古い手配写真を見ていると、僕がこの歳までやって来られたのは、周囲にいい人たちが居てくださったことに尽きると分かるのです。