第31回  “懐かしの11PM”

 
昭和四十三年


この時、僕は花の三十一歳。
一緒に写っている三木鮎郎は、笈田敏夫さんはおいくつだったんでしょう。
前に立っている漫才は、「一平・八平」つまり「いっぺいやっぺい」だったと、なぜかはっきり覚えているのですが、二人のお嬢さんの名前は思い出せません。
左端の方は一谷伸江さんでしょうか?
この頃、日本テレビの看板番組“11PM”のプロデューサーだったのは、後藤達彦さんで、若かったディレクターは僕の高校時代の友人、赤尾健一さんでした。
二人共、チンピラなんか早くやめて、司会でも構成作家でも脚本でもいいからテレビ業界に移れと、とても親切に仰ってくださったのです。
男は一生に何回か、もしあの時こうしていたら、とか、ああしてたらどうなっていたかと思うことがあります。
もし、あの時、チンピラをやめていたら、僕は大橋巨泉さんになっていたでしょうか?それとも橋田寿賀子になって、今頃、泉ピン子を子分にしていたでしょうか?
この写真を見ながら過ぎた昔を考えていると、似たようなチンピラから脱出するチャンスは、何度かあったのを思い出します。
産経新聞のエモリさんから、「学校なんか出ていなくてもいいから、すぐ産経においで」と、言っいただいたのは、この写真の十年ほど前でした。
もしあの時、新聞記者になっていたら、どうなっていただろうと、僕は考えたりもしたのですが、大した者にはなっていなかったに違いありません。
若い頃の僕は骨の髄までゴロツキで、何を職業に撰んだにせよ、カタギの仕事は長くまっとう出来なかったと思います。
僕にとてもよくしてくださった先輩の笈田敏夫さんも、それに後藤達彦さんもお亡くなりになりました。
しかし、慶應高校の同級生だった赤尾健一さんはとてもお元気で、三月に帝国ホテルであった僕の小学館漫画賞の受賞式には、自分のことのように喜んで忙しいのに、わざわざ来てくれたのです。
  「おーい健ちゃん。この式が終わったら荒木町で一杯やんべい」と、僕が叫んだら、
「そのうちな……」場面を読んで、この受賞式の後はパーティーがあると察して、健ちゃんは叫び返しました。
こういう冷静な判断が、七十近くなってもできないんですから、やっぱり早くカタギになっても僕は偉くはなれなかったでしょう。