第30回  “三田の隠居場”

 
1987年


今から約十九年前、母は七十九歳で僕は四十九歳、頭のてっぺんの毛が少し薄くなっています。
場所は三田にあったマンションの隠居部屋です。  
父が亡くなってから一年間、母はここで食べたいお菜で御飯を食べ、好きなテレビ番組を見て、寝たいときに寝て、五十八年振りに自由に過ごしたのです。  
隣りに住んでいたのが、当時所帯を持っていた藤圭子と前川清で、下の階には母と仲が良かったプロレスラーのデストロイヤーが住んでいました。
一階にあった食品スーパーでデストロイヤーが、母の買い物篭を持ってくれていたのを懐かしく思い出します。
ある日、母のところに様子を見に行った姉が、冷蔵庫の中の煮物にカビが生えているのを見付けました。  
「もう独りで暮らすのは無理よ。御近所に御迷惑を掛けるといけないわ」
視力の落ちた母にはカビが見えなかったのだと、姉は痛々しそうに言いました。  
母は子供を四人産んで、上から二番目の恵子を十七歳で結核で亡くしています。  
昭和二十四年のことですから、まだパスやストレプトマイシンといった特効薬はありません。
僅かに聖路加病院のセファランチンという余り効かなかった薬があったことを、僕はこの原稿を書いていて思い出しました。  
上から順に福久子、博也、そして僕と続く兄弟は、今や七十七歳、七十三歳、六十八歳と皆爺婆になりましたが、それでも何人兄弟かと人に訊かれると、皆「四人兄弟ですが、二番目を若い時に病気で亡くしました」と同じように答えます。  
母はマンションを処分して、姉の家に離れを作って、亡くなるまでそこで幸せに過ごしました。  
二度の世界大戦も、当時は珍しかった外国暮らしも、子供の死も、末っ子の放蕩もいろいろ経験した八十一年でした。
僕は「秋は滲んで見えた」というタイトルで、母の思い出を書きました。(PHP研究所刊、文庫版タイトルは“母さん、ごめんなさい”)  
本当に人柄が良くて、優しい母でした。  
この歳までいろいろ女に愛されたのが自慢の僕ですが、母ほど愛してくれた女は、実は他に誰もいません。。