第28回  “人畜有害的無頼漢”

 
1969(昭和44)年 青山ロブロイ


ベトナム戦争で、アメリカ軍の形勢が大分悪くなって来た昭和44年、命知らずで恥知らずだった32歳の僕は、我ながら物凄い勢いでした。  
このライブハウスは青山ロブロイで、本妻だったキンギョがやっていましたが、他にも赤坂と六本木、それに三田にも店があって、それぞれ愛人チャンにやらせていたのですから、37年経った今とは威勢がまるで違います。 
乗っていた車は白いフリートウッドで、飼っていたのはドーベルマン。住んでいた鵜の木の家は、敷地が七百坪もありました。  
晩御飯の前にはドライマテニを呑み、御飯の最中には白と赤のワインを、一人で一本づつ呑んで、食後はI.W.ハーパーをオンザロックスでほぼ一本呑んでケロリとしていたのです。  
現代の杉村太蔵やホリエモンは、同じ成り上がりモノでも、とてもこんなには呑めないでしょう。  

この青山ロブロイは三十坪ほどの店でしたが、入口の脇にかなり贅沢なスペースのクロークルームがありました。
クロークは客のコートや傘を預かるのが本来の目的でしたが実は、今だから話せるのですが、二率会小金井一家、新宿東貸し元、矢島武信舎弟、安部直也一統の武器蔵でした。 
ゴルフバッグの中には、河馬や象を撃つサヴェージ社製のライフルが入っていて、巨きなショッピングバッグの中には、導火線のついたダイナマイトまで入っていたのです。  
警察が踏み込んでも、「あ、そんなもんが入ってたんだ。驚いた客ですね。ハイ、これは客の忘れ物です。いやぁ客の忘れ物の中を覗くなんて、そんな行儀の悪いこと、するわけがないでしょう」なんて、恍けたことを言うことになっていました。  

その頃、二十人もいた僕の若いもんで元気なのは、カタギになって建設業をしている最年少だったマコトと、ゴルフ場のレストランで支配人をしているジョー、それに、まだ何処かでゴロツキをしているアキオだけです。  
勝五郎は糖尿病で、ヨシクニはロサンジェルスで死に、郁夫はシマモチの貸し元に出世した後、肝臓癌で死にました。
四十四歳で足を洗い、四十六歳から小説を書き始めた僕は、この五月には六十九歳になります。  
歳並みに老いて勢いが衰えましたが、それでもこれは、望ましい姿だと自分では思っています。  
すくなくとも、この写真の頃よりは穏やかになりました。間違い無く人畜無害な老人になれたのです。