第22回  “六十四年前は戦争前夜”


1941年 ローマ


 前回の写真があまりに艶然とし過ぎていて、読者の皆様がヒキツケをおこしたらしいので、今回は、右手を三十四歳の母に、左手は三十九歳の父に預けた、四歳の僕です。  
いやー我ながら、可愛いです。  
今なら子役CMタレントで、大儲けしていたのに違いありません。  
この写真を撮った時の記憶は、かなりはっきり残っています。  
これは、写真館でパスポート用の写真を撮った時、ついでに撮ったものです。
父はこれが最後の家族写真になるかも知れないと、悲愴な覚悟をしていたのでしょう。  
ヨーロッパでは第二次世界大戦が始まっていて、僕たち家族は日本に帰りたくても、もう地中海を東に行く汽船はありませんでした。  
なんとしてでも日本に帰ると決めた父は、ベルリンまで行って、そこからロシヤを横断して満州まで二週間もかかるシベリヤ鉄道に乗ると決断しました。  
僕たちが満州に着くのが早いか、ナチスドイツがロシヤ侵攻に踏切るのが早いかの時間との勝負でした。  
平和な現代と違って大変な時代で、ひとつ間違えば皆殺しにされてしまうのです。  
この写真を撮り終わると、飼っていたワイヤテリアのチビを、お隣りのカナリさんに、“戦争が終わったら必ず迎えに来ますから……”と、言って預かっていただいて、僕たちはベルリンに急ぎました。  
これは父の好判断で、僕たちの乗った汽車がシベリヤを越えて、満州里に着くと次の日に、ナチスドイツはロシヤに攻め込んだのです。  
ベルリンで次の汽車に乗った日本人は、敵性外国人ということで、ロシヤに抑留されてしまいました。
まさに危機一髪だったのです。 
しかし、そんな緊迫した事態は大人の世界のことで、九歳だった兄の博也と僕は、初めての汽車の旅にはしゃいでいました。  
子供は暢気なものです。  
日本に帰れば、福久子姉さんと恵子姉さんに会えるぐらいしか、頭にありませんでした。  
朝飯を幼い二人だけで食堂車に食べに行って、少しでも外貨を稼ごうとしたウエイトレスが勧めるまま、キャビァをムシャムシャ、旨い旨いとおかわりして食べ、後から両親にこっぴどく叱られたりしたのです。  
この写真を見て、つくづく父と母に愛されていたんだなと思います。  
このあどけなくて可愛い末っ子は、本当にぐれて前科モンになんか、なってしまったのでしょうか。
当人にも信じられません。  
人違いじゃないでしょうか。 。