第19回  “JALフィフティーン”


昭和36年


後列の左の端に立っているのが、二十四歳だった僕です。  
若い頃は野球にボクシング、それにラグビーと、いろいろやった僕ですが、一番試合回数が多いのはラグビーでしょう。
中学の二年から高校の試合に出場し、七つ行った高校の最後は、ラグビーの名門、東京保善高校の定時制で、編入の条件はたった一つ。
昼間のラグビー部の練習を手伝って、スクラム台をしてから、授業を受けることでした。  
スクラム台というのは、野球で言えばバッティングピッチャーで、レギュラーのフォワードが押すのを受け止めるのが仕事です。  
週に五日それをやって、僕は二十二歳でめでたく高校を卒業して、日本航空へ紛れ込みました。
この頃のことは自分でも信じられません。  
口を開ければ本当ではないことを、まことしやかに言い立てる僕ですから、この歳まで生き延びると、数少ない本当のことと嘘や法螺がゴッチャになって、何がなんだか分からなくなってしまうのです。  
きっと橋本龍太郎も、西武鉄道や三菱自動車の偉いさんたちも、僕と同じ悩みを抱えて余生を過ごすのでしょう。  
この“JALフィフティーン”の僕を除いた十四人は、そんな人たちじゃありません。  
皆さん素晴らしいカタギでした。  
前列の左から二番目にしゃがんでいる川口さんは、慶應高校のラグビー部で一緒にやったバックスでしたが、僕が中途採用で入社したと聞くと、すぐ訓練所に来てくださって、「ナオ。JALでもロックをやれ」  と、声を掛けてくださいました。  
つい十五年前まで、麻布学園と都立小山台高校の超OB戦には、「そんな歳でラグビーなんかして、なにかあっても保険が降りるかしら」と、危ぶむ女房殿を無視してプレーしていたのですが、もう駄 目で、駄目は按摩の目なのです。
後列、右から二番目に立ってらっしゃる中村さんは、モスクワのクラッシュで亡くなりました。
御冥福をお祈りします。  
中村さん、仲良くしていただいて、有難うございました。