第11回 ローマ動物園、昭和15年頃


ローマ動物園、昭和15年頃

写 真の下端に14年とありますが、どうでもいいようなことですけど、昭和15年以降に違いありません。
父の転勤で僕たち一家はロンドンからローマに移りました。
ローマの家の裏は動物園の門でしたから、僕はしょっちゅう遊びに行っていました。
家の猫は入場料を払わずに出入りして、命懸けでライオンの食べ残しを齧っていたのです。5歳年長だった兄の博也がゴリラにウンチを投げられて、ベソをかいたのも僕はなぜかそんなことだけ、はっきり覚えています。
じゃが芋とメリケン粉で作ったニョッキが、この写真の頃の僕のお気に入りです。
もうヨーロッパでは戦争が始まっていて、幼かった僕もムッソリーニのファシスト少年団に入りました。
今でも実家のアルバムには、制服に身を固め木製の鉄砲を担いだ凛々しい僕の写 真があります。
だから僕は67歳になった今でも、歌詞はウロ覚えですが、「ジョビネッツァー」なんて、ムッソリーニが殺されてからは唄われなくなったファシスト党の歌を、メロディーだけはシッカリ覚えているのです。
父の正夫も母の玉枝も、日独伊三国同盟に疑問なんか全く持っていない、今風に言えばノンポリでした。
戦争が終わった途端に日本のオバさんたちが、「日本の女は戦争中もずっと平和を願っていたのだ」なんて、まことしやかに言ったのですが僕は信じません。
母も近所のオバさんたちも慰問袋を作り、千人針を縫い、町内から出征する男がいれば、駅まで行って日の丸を振って戦地に送り出しました。
ただ母は、僕が陸軍少年戦車兵になると言った時、ちょっと小さな声で「お前、歩兵におなり。あんな天火みたいな中で闘っちゃいけない」と、言ったのです。
若い方は千人針も慰問袋も、それに天火も何のことだかお分かりにならないでしょう。
天火はオーヴンのことで、そそっかしい末の息子が逃げ遅れて、ウエルダンになってしまうのを、軍国の母は心配したのに違いありません。
お蔭で僕は、戦車の中で黒焦げにならず、法務大臣に首を吊られもせずにこの歳まで生き延びたのです。