第10回 33歳の興行師


昭和45年 
ビッグ ・ナオ ・プロモーション株式会社にて

ちゃんとワイシャツにカフスボタンをつけて、ネクタイもきちんと結んでいるのは、僕が有限会社じゃなくて資本金200万円のチャント登記した株式会社の代表取締役だからです。
1株1万円で周囲の人たちに義理をさせたので、株主は100人ほども居て、社員だって10人以上もいたのです。
その頃の僕は、ヤクザと青年実業家の二足の草鞋でしたから、儲かることは合法でも非合法でも躊躇わず何でもする“ビッグ ・ナオ ・プロモーション”の他に、資本金4950万円の“オリエンタル食品工業株式会社”と、資本金500万円の“セントラル オート株式会社”の代表取締役を兼務していました。
あまりそんな印象を与えていなかったらしいのは残念ですが、僕は実はとても律儀な男で、どの会社も設立してから4年目には、最低10パーセントの配当をやって、株主たちに怪訝な顔をさせたのです。
皆、僕に株を売りつけられると、
「なんだナオちゃん、チンピラの頃はボクシングか浪花節のティケットで、兄イになったら自分の会社の株かよ」
なんて言ってたのですから、
「3年経って、4年目から日本航空ぐらいの配当は、このアベナオが約束する」
と言っても、誰もアテになんかしていません。
配当をもらっても喜ばずに、怪訝な顔をした奴ばかりだったのは、僕の経営手腕を知らず、ハナから馬鹿にしていたからでしょう。

この3つの会社の顛末を書くと、上下両巻の厚い本が出来ますから、またの機会にして話はこのビッグ ナオ プロモーションに絞ります。
この会社は何でもやる定款でしたから、時々法に触れます。
社員が出張中というのは、ほとんど「今、不運にも逮捕されてる」ということでした。
それでも非合法な仕事ばかりやってたわけじゃありません。
日本芸能史に燦然と残る興行も、この僕の会社は敢然とやってのけたのです。
日本人は講演が好きなので会場は一杯になりますが、昭和40年代は、なぜか全て入場は無料でした。
浪花節でも漫談でも料金を取るのに、講演はロハが常識だったのです。
ビッグ ・ナオ ・プロモーションは日本で初めて、入場料1000円の講演会を日経ホールでやりました。
その頃、小松左京さんの「日本沈没」がミリオンセラーで、日本中が、日本が沈んじゃったらどうしようと、青い顔をしていたから講演会のテーマは「日本沈没」です。
小松左京さんの前座には、当時、パニック時の群集心理の権威だった安倍北夫先生をお願いし、更に幕が開くと三上寛さんが、「日本沈没のブルース」を絶唱するというのですから、これはユニークな大興行でした。
有料の講演会なんて客が来るもんか……というのが、たいていの興行師の意見でしたが、前売りも好調で僕は日本で初めての有料講演会がヒットすることに、自信を持っていました。
けど、しかし当日の僕は、なんと築地署の留置場に別件の賭博でブチ込まれていたのです。
自白しないのに怒った刑事は接見禁止にしたので、興行の主役の小松左京さんも面 会できません。
起訴も実刑判決も覚悟の上でしたが、客が入るかどうか、留置場の僕はヤキモキ気を揉みっ放しでした。
大袈裟ではなく、興行師としての全てが掛かっていたのです。
勤務の終わった看守に、「会場の入りだけ見て来てくれ」と、僕は頼みました。
日経ホールへ行って、帰って来た若い看守は留置場の前に立って、 「アベさん、凄かったスよ。大入り満員でビッシリ立ち見まで出てました」と、言って、すぐ帰れなかったのは、三上寛を聞いてたからだと照れ笑いして付け加えたのです。