第9回 "安部譲二の再出発を祝う会"にて……


1986(昭和61)年 12月 第一ホテル


この写真は今から18年前の昭和61年の年末に、文藝春秋が出版記念会ではなくて「安部譲二の再出発を祝う会」というのを、新橋の第一ホテルでやってくれた時に、師匠の山本夏彦が僕の汗拭いているところをカメラマンの藤塚さんが撮ってくださったものです。  
昭和56年に足を洗って、昭和58年から小説を書き始めた僕ですが、短篇小説が雑誌に載っても、なかなか単行本を出してくれる出版社は無かったので、苦しい時が続きました。
それは何処にも文句を言って行けない、身から出た錆というもので、出版社が僕の非道い経歴に怯え危ぶんで出版を躊躇っているのだと分かっていても、そんなに永く我慢できるものではありません。
単行本のない作家は、名刺を持たないサラリーマン、決して一軍に登録されないプロ野球選手と同じだと、僕はボヤキました。
「ヤメタ。何時まで待っても、前科モンの単行本なんか出してくれる出版社なんかねえ」

中古のトラックを買って、長野県から築地の青物市場まで、キャベツやレタスを運ぶ仕事をすると僕が言い出した時、文藝春秋の当時、常務だった田中健五さんがふらりと家にいらっしゃいました。
今、思い出すと、あれは小学校で言ったら家庭訪問だったのです。
安部譲二はまだヤバイと他の社が決めていたのを、田中健五さんはどんなもんだか自分の目で見極めてやろうと、家に来てくださったのに違いありません。

それが昭和61年のお正月でしたから、僕は丸2年間、慣れぬ我慢をしたのです。
そして、「安部譲二はカタギだ。大丈夫だ」と太鼓判を押してくださったので、文藝春秋からの初出版が決まりました。
これがハードカバー103万部のミリオンセラーになった「塀の中の懲りない面 々」です。
師匠の山本夏彦はとても喜んで、「お前は学校を出ていないから、せめて初出版はいい出版社からさせてやりたかったのだ。出版界というところは嫌なところで、そんなことが大きいのだ」と、新米だった僕には分からなかったことを、おっしゃったのです。  
師匠は僕の何処を気に入ってくださったのか、本当によくしてくださいました。
「山本夏彦とあろうものが、なぜ安部譲二みたいなナラズモノを弟子になんかしたんだ」  
と、いう声が聞こえて来ると師匠は
、「私は安部譲二の文章を見て、前科は見ない」
と、言い放ってくださったのです。

運がいいからここまで生き延びた僕ですが、この師匠に巡り会い、実の子みたいに愛していただいたのは、大幸運で、こんなことはそう滅多にあるようなことではありません。
昭和61年の、忘れもしません8月15日に本屋さんに並んだ僕の初出版は、お蔭さまで売れに売れて、その年の暮れには35万部を超えました。  
そして、この写真の会になったのです。  
僕が作家になりおおしたのには、力になってくださった方が大勢おいでになるのですが、その筆頭は故山本夏彦で、これはもう間違いありません。  
僕はこの有難い師匠のお蔭で、67歳になった今でも、文章を書いて暮らしが立てられるのです。