第6回 慶応がお礼をくれた


1988年の秋 慶応にて


この写真は忘れもしません。1988年の秋でした。
今から16年半も前ですから、僕も驚くほど髪の毛が多いんです。
なぜこの写真のことをハッキリ覚えていたのかというと、それには30年以上にもなる長いわけがありました。
僕は1955年の春に、慶応義塾高等学校を除籍になっています。
退学ではなく除籍でした。
退学なら何処へでも編入できるのですが、除籍だと“最初から、お前は居ない”ということなので、喰らった当人としてはほとんど路頭に迷います。
理由は「はなはだしく塾の名誉を汚した」と、塾管局から来た葉書には書いてありました。
こんな通知を封書じゃなくて葉書でするところに、自分のことを嫌い抜いていた安西という教師の心を、僕は知りました。
早稲田の学生に総ゴロを挑まれて、叩きのめしたのが、それほど塾の名誉を汚したとは、その当時の不良少年は毛ほども思ってはいません。 総ゴロというのは人数無制限の団体戦でした。
それ以後一度も顔を合わせていませんが、後宮とエンチビには感謝しています。
この二人は、男でした。
決戦場の高田馬場に向かう集合時間になっても、15人は来るはずだった慶応ボーイは、僕と後宮と、それに、喧嘩するのはこれが初めてだというハンサムな水泳部のエンチビだけで、誰も来なかったのです。
「仕方がねえ。殺されることもねえだろ」
エンチビに来なくてもいいと言ったら、黙って綺麗な顔を横に振りました。
「相手の頭株の前に立って、鼻か顎に三人揃って右をブチ込むんだ。それで相手の腰が引ければ、もしかすると、ほんの少しだが俺たちに勝つチャンスが生まれる」
僕は渋谷から高田馬場に向かうバスの中で、後宮とエンチビに言ったのです。
16人で待ち構えていて、僕たち三人を見てすっかり安心した敵を、決死の三人は片っ端から鼻血まみれにしてやりました。
永く喧嘩に明け暮れた僕ですが、総ゴロでこれほど鮮やかに勝ったことは、他に覚えがありません。
僕と後宮と、それにこの時、初めて喧嘩をしたエンチビは、もしかすると三田か日吉に銅像が建つかと思いました。
それなのに、後宮は退学、エンチビは停学、そして僕は哀れや除籍になってしまったのです。  

そんな慶応義塾に僕は、それから33年経って戻って来ました。  
もうあの憎い洋品屋の倅兼教師の安西某はいません。  
死んでしまったのに違いないと思ったら、気持ちは晴れずに、なんとも言えず寂しくなったのは不思議でした。  

作家になりおおした僕に、講演をしろというのです。
僕は後輩に「除籍だけは喰らうな」と説いたのですが、拍手はまばらでした。