■第十一回 “いなくなった富美子”

歓迎会のために着替えて部屋を出るまでに、栗村は富美子のくれた手紙を、五枚の内、一枚しか読む時間がなかった。富美子がなぜ金英姫なのか、何時この手紙を東京から送ったのかも、書いてあるのだろうがまだ栗村には読めていない。
最初の一枚で分かったことは、富美子がなぜか朝鮮人の金英姫で、なぜか自分と別れる決断をしたということだけだった。
ふたつ共、まともなことではない。
続きを読まなければ、歓迎会も乾杯も万歳も、落ち着いて出来ないと栗村は思う。
部屋に戻って急いで背広に着替えた栗村が、ロビーに戻ると熊川は腕時計を見て、

「日本から着いた手紙をまだ全部は読んでいないんだろう」

と、言う。
栗村が黙って頷くと、熊川は、

「大事な手紙を全部読まずに宴会に出たって、心ここにあらずで全ては上の空だろう」

ここで読んでから行けと、ロビーの椅子を顎で示して言ってくれる。

「歓迎会は七時からですから、もう時間がありません」

帰って来てからゆっくり読むと栗村が言ったら、

「どうせ俺たちが行かなきゃ、会は始まらないんだから気にするな」

ホテルの入り口から入って来た若い男が、そばに歩み寄ったのに、熊川は、

「ああ御苦労さま。車のところで待っていてくれ。主席操縦士が東京から届いた大事な文書を確認しなきゃならない。時間は取らせない。ほんの十五分だ」

と、言い放ったのだが、手紙と言わず文書と言ったのが、熊川の年の功だった。
二人を迎えに来た若い男は、「それでは車のところでお待ちします」と言って、姿を消す。
栗村はロビーの椅子に坐って、富美子の手紙の続きを読んだ。熊川は離れたところにあったソファーに腰掛けて、両切りの紙巻煙草に火をつける。
チャンスが無くて言いそびれていたが、両親共に朝鮮人で、神田富美子というのは日本名で、本名は金英姫だと二枚目の便箋で富美子は書いていた。
この手紙は栗村が出発する十日前に投函したのだが、遂にこの飛行の目的を自分に打ち明けてもらえなかったのが哀しいと、富美子は書いている。
飛行機の操縦がほんの初心者の貴方が、なぜ主席操縦士に撰ばれて、ローマまで飛んで行くのか、大学の事業として行う根拠が薄弱だから、尚更怪しいのだと富美子は、思い切ったことを書いていた。
貴方があたしのことを、愛していらっしゃるのは、とても嬉しいし、この飛行をするのが、二人の将来にプラスだと貴方が判断したことは分かるのだが、説明を受けない、受けられない自分が哀しい。
なぜ、男が命がけのことをする時に、女の自分は何も打ち明けてもらえないのか、子細は知らされず、ただ無事を祈って待っていろというのなら、それはあまりに一方的で尊大で、私にはとても我慢できない。絶望して別れることに決めたと、富美子は書いている。 遊びごころで肌を合わせたのではないと、貴方だって御存知だったろうと富美子は、ペンに力を籠めて書いていた。

「女の私が、こんなことを不満に思うのは、日本の常識ではないのかも知れません。男が決断したことを、女や部下に話さないのは、日本の習慣かも知れません。でも、それは相手に対して決して信頼を生まない、一方的な悪い習慣です」

それに少なくとも自分は、貴方にとって大事なことは相談する筆頭の仲間か、身内でありたいと思っていたと、富美子は書いていた。 貴方が命がけでこの飛行に出発する時に、自分はなんの説明もないのに耐えられないと書いたところには、涙をこぼしたのだろう、インクが滲んでいる。
この手紙を涙をこぼしながら富美子が書いていた時、自分はそんな哀しさには気が付かずに、ただ二人の幸せな将来だけを思っていたし、富美子が朝鮮人だなんて考えてみたこともなかった。
ソヴィエット・ロシヤを欺くために、主席操縦士になった自分は、ベテラン飛行士の熊川教官に助けられてシベリヤを飛び、陸軍が指示した地点の写真を撮る。これに成功したら俺は、卒業と同時に満州鉄道会社に入社することになっている。
こんなうまい話は、法政大学で余程の成績を挙げてもほぼ無理だと、そんなことまではとても富美子には話せない。日本人の悪い習慣だと言われても、男には喋れないことがあるのだと栗村は大きな溜息を漏らす。
その溜息で気がついたらしい、両切りの紙巻煙草を灰皿に揉み消した熊川は、

「さ、行って万歳をやるか。天皇陛下万歳。芸者の臍のゴミ万歳。プロペラに当たったバッタも万歳……」

と、皮肉に言って立ち上がる。
ちょうどその時、入り口に若い男が再び姿を見せた。

「OBや関係者はどんなことにでもかこつけて、呑んだり騒いだりしたいんだよ」

俺たちは二人共、命懸けだが集まる連中はほとんど皆、どうでもいい赤の他人だと、熊川は抑揚のない声で栗村に囁いて、迎えの車に乗り込んだ。

「手紙を読んで考えが変わったら、今からでもやめたらいいんだぜ。まだ時間はある。ここからハルピンへ飛ぶまでにゆっくり考えて、好きにすればいいんだ」

ハルピンを離陸してロシヤ領に入るまでは、何をやっても自分の勝手だと、動き出した自動車の中で、熊川は優しく言ってくれた。 この教官は人の心も分かるのかと、栗村は思った。
陸軍に約束したことを、反故にしようとまでは思ってはいないが、富美子の手紙を読んで、かなり自分の心は揺らいでいると、栗村盛隆は思っていた。
                  
 

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