■第六回 “ウルサンを目指して ”

「クマさんッ」  
若い女の高い声が聞こえて来て、熊川のイグニションスゥイッチに掛かっていた指が、一瞬そのまま止まった。  
野球場でも運動会場でも、喧騒が途切れて声が通る瞬間がある。  
愛しい男の無事を願った女の声は、美しく張っていて、飛行場を埋めた見送り人たちは声のした方へ注目した。  
そして次の瞬間、それまでの緊張や高揚が解けて、早朝の飛行場に好意の籠もった穏やかな笑い声が弾ける。  
操縦士の名前もうろ覚えのカイゼル髭の巡査まで、一緒になって笑顔で叫んでいた。  

「クマさーんッ。はよ戻りや」  

仲居のお清は約束したように、自転車で木津川飛行場まで見送りに来ていた。
お清は姿がいいから、そんな大きな声を出さなくても分かるのにと、熊川は苦笑する。 
後ろを振り向いた栗村の目が、掛けたゴーグルの中で「クマさんって教官のことでしょう」と、微笑んでいた。  
お清が見送りに来ていたと知っても、操縦士たる者が、まさかいったん乗り込んだ操縦席を出て、後朝の別 れを惜しむわけにも行かない。 人目があるのが熊川には残念だった。  
男には人目があっては出来ないことがある。  
蔚山では給油の為に一時間ほどしかいないから時間が無いけど、今夜泊まる京城からお清に絵葉書でも出そうと熊川は思った。

「コンタクトッ」  

整備員が操縦席を見上げて叫ぶと、熊川は頷いてイグニションスイッチを入れる。  
プロペラが回リ始めて、百二馬力のシーラス・ハーメス・エンジンが、物凄い音を発てて始動する。  
こうなったら、もうお清が何を叫んでも熊川には聞こえない。  
五分ほど暖気運転をして、熊川はスロットルバルブを開けて回転を上げてみる。
整備員が八人がかりで、動き出さないように懸命に押さえている。  
滑走をスタートする前に、熊川がチラリと見たら、お清の白い顔の真ん中に円いものが赤く見えた。可愛い口しか見えなかったが、お清は「行ってらっしゃい」と、叫んでいたのだと熊川は思う。

整備員は翼や機体を掴んでいた手を放し、 同時に車輪止めが抜かれた。滑走路が固く締まっていたので、羽田のようなことはなく順調に加速して、九百三十キロの機体がふわりと浮く。
まだ人通りがほとんど無く、煙突から煙も出ていない大阪は、お清と見送り人だけが目覚めていた。  

昭和六年五月三十日、午前七時。  
青年日本号は朝鮮半島の東南端、蔚山に向けて大阪木津川飛行場を離陸した。  
新野が操縦する朝日新聞機は、上になり下になり前を飛び後にさがり、明石の沖まで青年日本号について来る。  
新野機の後部座席には大阪朝日新聞のカメラマンが乗っていて、ほとんど立ち上がって上半身を一杯に機外に伸ばし、黒い箱型のカメラで写 真を写していた。  
一眼レフなのでカメラマンは、上から蛇腹のファインダーを覗かなければならない。
何回も乾版を抜き差しして、カメラマンは青年日本号に向かって頭を下げた。  

「撮影は終わったらしい。これからずっと瀬戸内海を飛んで、三田尻から西北西にコースを変えて小串に出て朝鮮海峡を越える」  

伝声管に熊川が叫んでいたら、近づいて来た新野機が翼を大きく左右に振る。  
揺れる中で新野は、右手を高く挙げて振っていた。
後部座席のカメラマンは、飛行帽の先だけ覗いていたから、きっと首をすくめて生きた心地も無かったのだろう。  
カメラマンは写真を撮るのが仕事だから、青年日本号と乗員には取り立てた想いはないが、操縦士の新野は違った。  
少年の頃、共に飛行学校で学んだ十人の同期生の中で、三人の生き残りだという想いがある。
その熊川が、警戒している敵を油断させようとして、遅くて重い練習機でヨチヨチと、敵地の上空を何千キロも飛ぼうというのだ。
自分も熊川も軍人ではないと、朝日新聞のパイロットは思う。
機関銃も付いていない練習機で、学生を連れた民間の操縦士を敵地の奥深く飛ばすなんて、そんな計画を誰が立てたのかと、その無責任な非情に新野は背筋が冷たくなる。  
ロシヤとは今、闘ってはいないけど、間違いなく敵地だと新野は認識している。  
ほんの数年前まで日本軍は、シベリヤの最奥のイルクーツク近くまで、帝政派の保護を名目に攻め込んで革命軍と闘っていた。
共産革命が成功して日本軍が引き揚げても、ロシヤに平和が戻ったわけではない。
ロシヤ人の対日感情が、そんなに簡単に好転するわけがないと、新野は思う。
学生による訪欧飛行なんて言っているのは子供騙しで、熊川がやろうとしているのは、敵地を探るスパイ飛行だと、新野は確信していた。  
事情があるのか、異常な愛国心か分からないが、友人は覚悟を決めてシベリヤに向かう。 
新野はカメラマンが悲鳴をあげても、二十キロも三十キロも青年日本号と飛び続けた。 

「夕刊の締め切りに間に合わなくなりますッ」  

後部座席から聞こえた声に、新野は一度、機体を青年日本号に近寄せると、右手で上空に浮いていた雲を指差して、

「熊川ッ。雲、雲だぞッ」
 と、何度も絶叫する。

 そして、熊川が大きく頷くのを見て、反転した。
どんどん近づく大阪は、なぜかぼやけている。  
新野はゴグルを額に上げると、革手袋を嵌めた手で涙を拭った。  

大阪は目覚めて、煙突から煙が立ち昇っていた。

 

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