■第五回 “新野のくれた餞別 ”

 大阪市長の歓送会だけ出席して、他にいくつも予定されていた宴会はみんな若い主席操縦士に任して、熊川は宿舎の鶴村屋旅館に戻った。  
明日はこの季節、天候が悪いことで有名な朝鮮海峡を越えて、朝鮮半島の南端にある蔚山まで飛ばなければならない。  
大阪から蔚山まで飛んで、そこで給油して、もうひとッ飛びして京城まで飛ぶのだ。  
機関士も乗せずひとりで飛ぶのだから、浮かれて乾杯や万歳ばかりしてはいられない。  
政治家や役人、それに名士たちが、学生による初の訪欧飛行を祝ってくれるのは分かるが、教官の自分は、まだほんの五十時間ほどしか飛行機を飛ばしたことのない若い栗村主席操縦士を前の操縦席に坐らせて、遠く蔚山から京城まで飛ばなければならないのだから 、準備しなければならないことや、考えておかなければならないことが山ほどある。  
握手も万歳も並んで写真を撮るのも、大阪市長の歓送会だけで沢山だった。  
その為に栗村は乗っているようなものだから、せいぜいやってくれと熊川は思っている。  
最後は法政大学の先輩が女郎屋か待合で、女を抱かせてくれるのだろう。  
こんな時には必ず、そんな訳知り顔の中年男が現れると、熊川には分かっていた。  
とにかく汽船で行けば、日本から出発すると、台湾の東を回ってバシー海峡からインド洋を渡り、紅海を抜けてスエズ運河を通 って、地中海を横断し、地球をほぼ半分回らなければ着けないローマまで、百二馬力の小さな飛行機に乗って行こうというのだから、これは命がけだ。
表向きの計画を聞いただけで、これは水盃ものなのだ。  
モスコーまでの本当の目的を、もし知ったら、見るからに単純で素朴な大阪市長は、とても万歳の音頭なんかとれなかっただろう。  
昨日、羽田で若槻礼次郎首相は、陸軍から本当の計画を知らされていなかったわけはないのに、誠意の漲った力強い声で万歳を三唱し、シャンペンで乾杯したのだ。  
冷酷で非情な男でなければ、首相も将軍も務まらないと、熊川は中学生みたいなことを想う。
空の上ではないから、こんな想いが頭に浮かんでも、風に乗せて吹き飛ばすわけには行かない。  
浮かない顔で熊川が部屋に居ると、仲居が襖を開けて、客が見えたと言う。  
若くて妙に婀娜っぽい仲居の白い顔の後ろから、黒くて無骨な男の顔が覗いて、

「やぁ、熊川。お前さんが乗って来た青年日本号の整備は、朝までにうちが完璧にやるから安心しろ」  

叫ぶとそのまま座敷に入って来る。  
浴衣を着た大男は、所沢の陸軍飛行学校で同期の新野だった。  
熊川と同期だった十人で、生き残っているのは三人だけだ。
ほんの十年ちょっとの間に、七人も死んでいる。いずれも飛行機事故だ。
空中戦で敵に撃たれて命を落とした者はいない。  
一度座敷から出ていった仲居が、盆にビールを二本とコップ、それに塩豆の小皿を載せて戻って来て、慣れた手付きで勧める。  
ビール瓶を握った白い指が、なまめかしい。  
二人がコップを挙げて乾杯すると、仲居は、

「御用がございましたら、お声をお掛けください」  

と、改まった関東弁で言って、姿を消す。

「熊川。大変な仕事をおおせつかったな」  

大阪朝日新聞の操縦士をして、原稿や写真を運んでいる新野は、素人ではない。  
石川島製作所が作った初級練習機にガソリンタンクを増設して、普通 なら機関士と一緒に飛ぶはずがその代わりに、ろくに操縦も任せられない学生を乗せてローマまで飛ぼうという飛行が、まともなものだとは思っていない。  
そんな気配が、新野のただでさえいかつい顔を固くしていた。  
たった三人の生き残りだ。隠す気もないし、知った秘密を新野が口外することもないと熊川は思った。

「大正十四年に朝日新聞の初風と東風が、同じコースを飛んでいるけど、あの頃は革命のドサクサに紛れていた。僅か六・七年でロシヤの事情は変わっている」  

陸軍も、学生を乗せた遅くて小さい青年日本号なら、ロシヤも油断すると思っているのだったら間違いだと、新野は真剣だった。

これが友情だと嬉しく思ったのだが、二年前に決めたことだから、熊川は話題をそらそうとする。
いくら危険でも、今更やめたなんて男が言えるものか。

「コチカゼ?」  
新野が東風を、コチと言わずにコチカゼと言ったのを、熊川は不審な顔をして見せる。
新野はコップを置いて、熊川を見詰めた。

「どこの田舎者が付けたのか知らないが、あのブレゲー機はコチじゃなくてコチカゼなんだ」  

コップにビールを注ぐと新野は、

「この話はしたくないようだな」  
と、呟いてグイと、ひと息で呑み干す。

「心配してくれるのは、本当に身に染みて嬉しい。貴君だけだ」  

しかし、二年前に決めて、ここまで飛んで来たことだ。危険を避ける手があったら教えて欲しいと熊川が言ったら、ついと新野は立って廊下に出ると、大きな声で「ビールッ」と叫んだ。  
戻って来ると目を据えて、

「ポルシェビキのロシヤ空軍は、フランスから最新式のブレゲー機を買って、シベリヤに配備していると、うちの記者が言っていた」  

太刀洗の戦闘機乗りと呑んだ時に聞いたのだが、圧倒的に優勢な敵に遭遇したら、雲に入ってじっとしているのが一番だと新野は言って、

「シベリヤでは、地上ばかり見ていないで、低い雲の位置を絶えず確認しておいて、いざという時にはそこに逃げ込むんだ。闘おうといっても機関銃も持っていないし、逃げようとしてもお前様の石川島R-3は百五十キロが一杯だろう。最新式のブレゲー機は三百五十キロも出るんだぞ」

新野が言い終わった時に、仲居が涼しげなビールを盆に載せて入って来た。

「このお清さんが、俺の餞別だ。熊川、無事にローマまで飛べよ」  

次の間でお清が、夜具を敷く音が聞こえて来る。  

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