第277回 『青春の1ページ』


なんだ、この青臭いタイトルは…。まっ、いいか。  

俺は身長176センチで、体重はいつでもライトウエルターで闘えるように70キロは超えないようにしていた。
まだ少年課のデコスケに追いかけられていた時だから17歳くらいだ。だいぶん記憶が曖昧になってしまったが、脳味噌を振りしぼって60数年前のことを思い出す。  
学校では中学の頃からラグビーをやっていて、その頃は高校生のチームでロックをしていた。ボクシング部にも席を置いていて、60キロのライト級では減量が苦しいから、63キロのライトウエルター級が俺の定量だった。
ラグビーは才能のかけらもなかったし、ボクシングも神奈川県高校のタイトルと南ロンドン18歳以下しか持っていたことはない。  
プロではフィリピン人のボクシング・プロモーター、ロッペ・サリエルのマネジメントで、当時対日感情が最悪だったヨーロッパを転戦したのは嘘じゃない。ホントの話だ。  
けど野球だけは小学生の頃から“将来のジャイアンツのエースは俺だ”と固く信じていた。子供だった俺にピッチングフォームとストライクの取り方を教えてくれたのは、その当時熱海に住んでいらした新田恭一さんだ。新田さんは慶應大学野球部のOBで、プロ野球・松竹ロビンスの監督も務めた人だ。  
“ストレートはキャッチャーミットではなく、キャッチャーの胸板目掛けて投げ込め”と言ってくれたのは、フライヤーズのミラクル投手、一言多十さんだ。その頃は変化球を多投するピッチャーをミラクル投手と呼んだんだ。このお二人はかなり年配の野球ファンじゃないと知らないだろう。

17歳の時に俺は、準硬式の強豪チーム港クラブに招かれて、先発投手の一人になった。押し掛けたり頼み込んだんじゃない。招かれた確かな記憶がある。その頃準硬式と言っていたのは、芯が硬球と同じで、表面にゴムが張ってあるボールを使うリーグだ。今ではやっているかどうかも俺は知らない。  
プロテクターもバットやグローブも、硬式の物を使う。俺は軟式だと170匁のバットを使ったが、準硬式では硬式と同じ230匁の奴を振り回した。ボールはストレートとナックルボール、それに手首を裏返しにして投げるドロップの三種類だ。スライダーもなければ、チェンジアップもフォークもその頃はまだない。
春先の明治座とのオープン戦で先発して、俺は6回までパーフェクト・ピッチングをしていた。明治座は都大会で必ず準決勝に顔を出す強いチームで、このオープン戦で先発したのは、浅草のフランス座のエースだった土橋正幸さんだった。場所は大岡山の東京工業大学のグラウンドだ。  
「3巡目だ。多分相手のバッターは高目のストレートに狙いを絞ってくるぞ。ストレートはボールになってもいいから低目か、相手の顎をかすめる釣り球を投げろ。あとアウト九つでパーフェクトだ。オープン戦でもこんなチャンスは滅多にないぞ」。正捕手のオッサンが、7回のマウンドに行く俺の肩越しに囁いてくれる。  
俺はバットを一握り短く持った1番打者の小柄な男の顎を狙って初球を投げた。これでバッターボックスから吹っ飛ばし、2球目も力一杯のストレートをインコースの高目に外して、俺は3球目に得意のナックルボールをインコーナーにゆるりふらりと投げるつもりだ。これで相手にサードゴロかなんかを打たせて19人目のアウトにする。  
相手の明治座に強化選手として招かれてマウンドに立っていた土橋さんは、持ち球のストレートが俺とは比べ物にならないほど早い。ウイニングショットは大きなカーブと、それにストレートと同じスピードで飛んで来て、いきなりクイッと低目のストライクゾーンいっぱいに決まるアウトカーブ。こんなボール投げられたら、アマチュアの打者はヤマをかけなきゃ打てるものか。  
しかし、この試合では港クラブが初回にデッドボールと敵失で1点取って、リードしていたんだ。  
打席に立った19人目の小柄な男は、インコース高目に外すつもりの2球目が真ん中高目のストライクゾーンに入ってしまったボールをフルスィングして三塁打を打ちやがった。その瞬間、俺のパーフェクトゲームは、滅多には見ないいい夢みたいに儚く消えた。  

その頃の俺は渋谷を縄張りにしていた安藤組・安藤昇の330番目の子分だったから、クラブチームで野球をしていたなんて身内にはもちろん内緒に決まっている。  
バレたら馬鹿にされるか、遊んでいる場合かと怒鳴られてボコボコにされる。いずれにしてもロクなことにはならない。  
だけど俺は野球が好きで好きで堪らなかった。浅草の魚屋のせがれだった土橋正幸さんが、しばらくして東映フライヤーズに入った時なんか、正直に言って嫉妬するより、羨ましくて虚脱してしまったのを覚えている。
春先のオープン戦でも、あの時明治座相手に完全試合をやっていれば、俺は港クラブの主戦投手になって、いずれはプロからお呼びがかかったのに違いないと、砕け散った「たられば」話にボーっと想いを馳せる。  

抜け殻になった俺は、大岡山から目蒲線・山手線と乗り継いで渋谷にトボトボ戻って、その後30年もならずものを続けたのだった。  

 




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