第275回 『タラモアデュ−』


八十一にもなると、若い頃のようにヘベレケになるほどは酒が飲めなくなる。
いいバーに行って旨いドライマテニを、チビチビじゃなくて三口か四口でやりたいと思っても、むせたりこぼしたり、オリーブを口に入れそこねて床に落としたりしてしまいそうだ。  
バーマンに頼む前に、そんな老い耄れた自分の姿が頭に浮かぶから、俺はもう十年以上バーには入っていない。不機嫌で多分卑屈な顔で前を通り過ぎるだけだ。  
俺がバーテンダーと書かずに、バーマンと書いたのに読者の三人に一人は、「フン」といぶかし気な顔をなさったのに違いないから、能書きを短く書かせていただく。俺は能書きを言ったり書いたりするのが、いい女を抱くのより好きなんだ。  
バーマンはバーテンダーよりずっと格上で、 野球選手で言ったらあの偉大だった金田正一や江夏豊と、巨人の菅野ほども違う。もう一つだけ例をあげておく。原稿料稼ぎに升目を埋めているんじゃない。この日記はいくら長く書いても管理者の女房殿は小遣いを増額してはくれない。  
バーマンは船で言ったらチーフオフィサーで、バーテンダーはクオーターマスターだ。 チーフオフィサーは船長・機関長の次に偉い一等航海士で、クオーターマスターは帆船時代に給料が船長の四分の一だった操舵手のことだ。「どうだ。俺はいろんなことを知ってるだろう」とひけらかすのは、読者をウンザリさせると分かってはいるのだが、これが止められない。

家の仕事場でポツンとひとりでいると、好きな酒が思い切り飲めなくなった自分がなんとも言えず悲しくてやるせない。  
そんな気分を追い払って、なにか懐かしい酒にまつわる思い出を頭に浮かべようと、ほんの十五分ほどだがいろいろ考えた。その時、頭にふらりと浮かんだのは、アイリッシュウイスキーの『タラモアデュー』だ。  

あれは今から六十年も前、渋谷安藤組のチンピラだった俺は、ミッドナイトブルーにチョークストライプの我ながら惚れ惚れとするスーツに、京橋の伊藤で誂えたコードバンを履いて、足取りも軽やかに横浜の「クリフサイド」に入っていった。  
富士銀行の虎ノ門支店から頼まれた“悪者探し”だ。横浜で見たという情報があったから、キザな中年男がいそうな所を捜そうと思って、まずクリフサイドへ行こうと俺は決めた。  
“悪者探し”というのは、銀行をだましたり出し抜いて旨い汁を吸って姿を眩ました奴を取っ捕まえる仕事だ。こういうのも俺の営業品目だった。銀行にとっての“悪者”で、俺にとっては相手はどうでもいいのだが、カタギは俺たちをこういう風に便利に使うんだ。警察には相談出来ないワケがあるのだろう。  
クリフサイドは本牧にある大きな、バーというより本物のクラブで品のいい三十路の姉妹が取り仕切っていた。  
俺は安藤昇のボディーガードで、何度も来ているから「あら、今日はおひとり?」なんて綺麗な姉妹は愛想がいい。六十年前はチンピラでも行儀が良ければ、いい店でも嫌な顔はされなかった。  
店の奥のバーカウンターの前のボックスで若い男と呑んでいたのは、東久世壽々子・通称スーズィーだ。カウンターに腰掛けた俺はスーズィーと目が合うと、立ち上がって会釈して「こんばんは」と挨拶した。  
高輪に住んでいる東久世壽々子は、五反田の池田山の俺の母とは近所付き合いの仲良しだ。
俺のことを、息をするように嘘をつくとか、蚊かダニほどの脳味噌だなんてぬかす奴は、ただの他人ではない。敵か仇だ。俺は銀行と保険会社、それに刑事と検事・判事にしか根も葉もないことは言わない。女の方には極くたまに本当ではないことを呟くこともある。  
本質的にはとても礼儀正しく誠実な男なんだ。大正九年生まれで俺より十七歳も年上で母の親しい友人の東久世壽々子に会えば、立ち上がって会釈するのは当然だ。  
しかしスーズィーはいい女だった。姿のいい垢抜けたというよりアトラクティブな大年増だ。興味をお持ちになった読者は、どうぞインターネットで御覧になっていただきたい。大昔はお公家様の東久世家。戦前までは伯爵家の正真正銘のハイソサエティの方なのだ。  
「I.W.ハーパーのソーダ割り。高い奴じゃない。五年ものか七年もので充分だ」と、俺がバーマンに言ったのを聞いて、「ナオちゃん、そんなヘアトニックかベイラムみたいなのをいつでも飲んでらっしゃるの?」とスーズィーは言った。  
レストラン「イタリアンガーデンス」の主人だったスーズィーは、ヨーロッパテイストの女で、アメリカ育ちだけどバーボンやデキシーランドジャズは好きではなかったのだと思う。  
「あなたは何を召し上がっているの?」と俺が訊いたら、その時スーズィーは『タラモアデュー』と言ったんだ。
なんて美しい響きだ。六十年経った今でも、俺はその時のスーズィーの声音を思い出せる。  
俺はチンピラだけど、他の奴が思い付かなかった、正直に言えばユニークな悪事を実行して、懐は豊かだったから好きな酒は値段が高くても構わず飲みに飲んだ。  
前例のない特殊な悪事を思い付いて、酒場で仲間に語る男は珍しくないが、それを実行する奴はほとんどいなかった。  
刑事は首を捻るばかりで、調書が上手く書けないし、検事も判例がないから起訴も出来ずにイライラカリカリして、俺は旨い酒を鯨のように飲み、いい女にお世辞を言い捲る。  
「美しい名前の旨そうなウイスキーですね。僕はまだ飲んだことがありませんが、“デュー”は露か雫ですよね。“タラモア”は人の名前ですか?それとも地名?」  
ほら俺は若い頃からちゃんと敬語が使えただろ。  
「あたしも行ったことがないけど、タラモアはアイルランドの地名だそうよ」  
美しい大年増は綺麗な指でグラスを形のいい唇に当てると水割りを一口飲み、グラスを音も発てずにテーブルに置くと、長い睫毛を静かに閉じて、「ああ美味しい」と小さな声でおっしゃった。  
今八十一歳の俺は、今までにお目にかかった女の方で、一番素敵だったのはどなただったかと、愚にも付かないことをボケた頭で考え始める。
岡田奈々でも石田えりでもない。岬マコでも蒼井そらでもない。  
そうだ、やっぱり東久世壽々子さんだ。『タラモアデュー』とひとこと言ったあの声も、なんとも蠱惑的でゾクゾクしたのだった。  

 




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