第265回 『呑む、打つ、買う、の噺』


俺は、“呑む、打つ、買う”の三拍子揃った遊び人だった。周囲に迷惑もかけたが、老い耄れた今になって一番のめり込んだのは、どれだったかと考える。  
さんざ酒を喰らい、一心不乱にサイコロを抛り、よく女を抱いた。今の不寛容のご時世にはメッチャ不向きだが、絶滅危惧種みたいな爺いの自慢噺だ。暇だったら読んでくれ。

楽隠居を決め込んで、とうに世間からフェードアウトした俺だから、ブログに何を書いても、大嫌いな菅官房長官も、杉並署も何も言わないに決まっている。読者の皆さんもどうか目くじらを立てないでくれ。

酒は中学二年の時に、日比谷高校の三年生だった羽鳥栄一さんに連れられて、目黒の縄のれん“源氏”に行ったのが最初だった。  
羽鳥さんは昭和20年代、山の手の学生の間では知らない人はいないと言われたほど有名な怪人だった。ただの高校三年生ではない。戦中・戦後に府立一中から都立一中(昭和18年〜)そして日比谷高校(昭和25年〜)と校名が変わった現在の日比谷高校に、ずっと在籍し続けた人なんだ。8年間くらいちゃんと月謝も払い続けたはずなのに、なんでそんなに留年させられたんだろう。  
俺を“源氏”に連れて行ってくれた時でも、見るからに不良学生という体(てい)じゃない。極く普通の人だった。
羽鳥さんは、その後中央大学の法学部に入って、そこでも裏表8年間在学し、驚くなかれ、取った単位は全部で2単位のみだったという。これは怪記録だ。
久しぶりに大学に行ったら、みんなが校庭で体操をしていたので、羽鳥さんもランニングとステテコになって参加して、見事に体育実技の2単位を取ったのだと、白門(中央大学のこと)伝説に燦然と輝いている。  
当然卒業は出来ず、大学を追い出された。俺より10歳以上年上だったが、そのハチャメチャぶりを俺はとても愛していた。  
俺に酒とその行儀を教えてくれたのは、羽鳥さんだけではない。東大の経済学部から全日空(当時の社名は日本ヘリコプター)に就職した普勝清治さんも、教養学部から運輸省に進んだ棚橋泰さんも、早々とグレにグレた俺を可愛がってくれた。そして酒のあれこれを実地で教えてくれたのだ。
学部は伺いもしなかったが大島巌さんは、俺の麻布中学の先輩で明治大学のアメリカンフットボールの猛者だった。よく行儀が悪いとブン殴られたものだが、こんな個性的なメンツに酒のイロハを教わって、俺はつくづくいい年長者に出会えたと思う。

羽鳥さんも普勝さんも棚橋さんも、俺の5歳上の兄の同級生だ。大島さんだけは、当時兄たちのたまり場になっていた喫茶店で知り合ったと兄が言っていた。彼らの付き合いは70年に及ぶのだから凄い。  
俺の兄は、中学のアチーブメントテストで全国一位になった男だが、大学受験の冬に風邪をこじらせ肺浸潤になって、東大も京大も失敗し慶応に入った。
当時飼っていた猫が夜回りやトイレの為に出入り出来るよう、部屋の窓をいつも少し開けていた。冬のある日、未明から雪が降りしきり、兄の布団の上に吹き込んだ雪が積もっていたことがあった。それが原因で風邪を引いて肺をやられたのだから、猫のトイレ問題も大変なんだ。今みたいに家の中だけで猫を飼うような時代じゃなかった。
ちなみに兄は猫のノミ取りの名人だった。
いつも膝の上に猫を載せて、本を読みながらプチッ、プチッとノミを取って潰すのだ。絶対に本から目を逸らさずに…。あれは凄い技だった。  

多分昭和27〜8年のことだったと思う。目黒川添いの飲み屋で酔っぱらった大男と喧嘩になった。外に出て目黒川の橋の上で殴り合いになって、大島さんが得意の左のロングフックを当てたのだが、六尺・二十貫はありそうな大男は、グラつきはしたが倒れない。  
それどころか目を据え腰を落として大島さんを押しまくった。アメフトの猛者を押すのだからたいした力持ちだ。
「あー、このままじゃ大島さん、目黒川に落とされちゃうよ」と俺が思った瞬間、のちに全日空の社長になった普勝さんが履いていた下駄を脱いで、大男の脳天をガツンと叩いた。  
急所だったのかこれがよく効いて、大男は堪らずその場に崩れ落ちた。大島さんを抱き起こし、皆でホッとして息を整え服の汚れを手ではたいたりしていると、シクシク泣き声が聞こえて来た。泣きながら何か喋っている。大島さんは左のナックルを揉み、普勝さんは下駄を履きながら一緒に耳を澄ました。
すると大男が肩をふるわせながら「俺は……、俺は力士になろうと青森からはるばる上京して来たのに、こんな奴らに負けるようじゃ横綱はおろか十両にもなれない。もうこの川に飛び込んで死んでしまおう。母さん!ごめんなさい」と言って、橋の欄干を跨ごうとしている。  
東京にお住まいの方は御存知だと思うが、目黒川の橋から飛び込んだところで死にはしないと思った(浅いし流れもほとんどない)のだが、そこはみんな酔っぱらいだ。俺たち三人は必死になって大男を止めた。そして相撲と酔っぱらいの喧嘩とは全然違うこと、力士は下駄なんか履いて土俵に上がらないこと、力士になって稽古を積めば故郷に錦が飾れるぞ…とか言って空が白むまで励まし続けたのだから、俺たちもちょっと頭がおかしかったのかもしれない。

酒を呑んで呑んで呑みまくって生きて来た。 若い頃は金がない。でも何とかしてあの無上の酔い心地を得たいと、薬局で売っていたエチルアルコールに “ワタナベのジュースの素”を入れて水を足して呑んだこともあった。17〜18歳の頃だ。これはヘベレケになった。
“ワタナベのジュースの素”はオレンジとグレープとパインがあったが、これに入れるのは絶対にパインだった。 (急性アルコール中毒になって死んでしまうこともあるから、よい子は真似してはいけない)
 
兄は日本酒でも焼酎でも、呑んだらすぐ同じだけ水を呑めと教えてくれた。しかし大ジョッキのビールを呑んで、すぐ1リットルも水を呑むのは無理だ。俺にはとても出来ない。  
俺はビヤホールに行くと必ず黒ビールを呑む。なにか俺にとっては特別な苦みなんだ。女の方が飲むと絵になるビタカンパリだが、俺もこの苦みをとても愛している。
古い友人はもうほとんど生きていない。運のいい奴は老衰でみまかり、他の男はおおむね肝臓を壊して死んでしまったのは、酒でなければヒロポンのせいだと思う。  

次回は“打つ”だ。


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