第261回 『想い出のボクサーたち(その3)』


“赤いお鼻のルドルフ”が街を走り回っている。(みんな知らないだろ。赤鼻のトナカイはルドルフって名前なんだ。英語の歌詞を見てくれ、他の8頭にも名前があるんだ)街のネオンサインもキラキラしている。
今年も二人と1匹のアベ家は何とか無事に終わりそうだ。我が家のイブは、クリスマス用の小さなホールケーキを真っ二つに切って、半分ずつ俺と女房殿で豪快に食べるんだ。ウニにも生クリームをいつもより多めにお裾分けする。
血糖値が一気に上がりそうだが、これが我が家の定番なんだ。これをやるともうしばらく他には何も食べられなくなる。  
今年の日記の書き納めは“想い出のボクサーたち”のウエルター級とミドル級だ。  

と、ここまで書いて中断して、年末ウダウダ過ごしていたら、なんと年が変わって酉年になっちまった。締め切りがないとついこんなことになる。
この正月は、餅をお雑煮とお汁粉で八つ食べた。喉に詰まらせないように、よく噛んで慎重に飲み込んだ。俺が餅を喉に詰まらせて死んだなんてことになったら、麻布中学の同級生たちは、きっと大笑いする。
「アベの奴、食い意地が張っていたから噛まずに飲み込んだんだろう。やっぱりガンじゃなくて、そっちでクタバったか」と。    

本題に戻ろう。日本で重量級といったらウエルター級とミドル級までだ。昭和30年頃、興行主やジムの会長たちが、ヘビー級を育てようといろいろ試行錯誤したのだが、結局うまくいかなかった。  
誰かが90キロもある相撲の褌担ぎをスカウトして来た。メインエベンターになると、アメリカ車に乗ってビフテキが食べ放題で、淡路恵子さんみたいないい女が群がって来るとそそのかしたのだが、半年も基礎的なトレーニングをしているうちに、ぜい肉が落ちて身体が引き締まりウエルター級になってしまった。  
そんなわけで、その頃の日本のランキングはミドル級までで、67キロのウエルター級は羽後武夫さん、松山照雄さん、椎名勇夫さんなど、ちゃんと10人揃っていたのだが、確か72キロか73キロだったミドル級は、辰巳八郎さんと横山守さん、大貫照雄さん、それに山野井清次郎さん、神戸の村岡照雄さんくらいしか記憶にない。  
その頃ミドル級のランキングは4位か5位までしか並んでいなかったと思う。  
昭和30年頃の辰巳八郎さんは、もう既にオールドタイマーで、左のスウィング気味のフックを打って、クリンチするだけだったように記憶している。しかし辰巳さんは驚くべき石頭で、アメリカの西海岸からやって来たジェームス・ジェット・ペリーと10ラウンドやって、散々打たれて負けたのだが、3ヶ月も経つと平気な顔でリングに戻って来た。  
ところが勝ったジェット・ペリーは、両拳骨折でそのまま引退してしまった。当時は10オンスのグラブだった。その後ロサンゼルスのバーで用心棒をしていたと風の便りに聞いた事がある。  

戦争が終わって10年ぐらいしか経っていなかったその頃だから、対日感情は今と違って最悪だった。だからヨーロッパやアメリカでは土地っ子の人気ボクサーと日本人や韓国人、フィリピン人のボクサーも「トージョー」とか「ヤマモト」、あるいは畏れ多くも「ヒロヒト」なんてリングネームで敵役を散々演じていた時代だ。  
ボクシングなんてものではない。善玉の土地っ子ボクサーが大声援に応えて、敵役の憎っくき日本人ボクサーを、クチャンクチャンにぶん殴りマットに沈めて溜飲を下げる見世物興行だ。  
その頃、敵役でイギリス・フランスを中心に転戦して年に22試合もやったのが、日本ライトヘビー級ラジカルコンテンダー(挑戦資格者)を名乗ったリングネーム「ハラキリ・トウキョウ」。俺は当時ヨーロッパで何度か会ったが、ちゃんと日本のパスポートを持っていて、後ろから覗いてみたら芦沢某と書いてあった。  
どうせ嘘ならチャンピオンと名乗ればいいのに、ラジカルコンテンダーと一歩控えた風情がなんともおくゆかしい。あっけなくブッ倒れるのではなく、毎試合5ラウンドまでは血みどろになって闘って、見せ場をちゃんと作るのがハラキリ・トウキョウの芸だったが、本人は人柄のいい男だった。

そんな終戦直後のどさくさが終わって、新和拳から沢田二郎が登場する。
沢田二郎は昭和30年東洋ライト級チャンピオンの秋山政司を4R・KOで倒し、秋山を引退に追い込んだ。この時、沢田は魚河岸に勤める17歳の少年だった。
俺はデビユー前のまだ16歳だった沢田二郎に、スパーリングで顎をおかしくされて暫くお粥しか食べられなくなってしまったことがあった。60年も前の話だが、なぜかとても懐かしい。俺は五月で80になるが、沢田二郎は酒を飲み過ぎて死んでしまったらしい。
 


目次へ戻る