第255回 『ご先祖様のこと(その4)』


家の雑煮は合鴨を使った関東風だ。
去年の5月末に退院した時は、体重が69キロまで減って、見すぼらしいこと我ながら目を背けるほどだったから、とてもおせちや雑煮は喰えないと思った。  
俺は考え深い男ではないから、そう“考えた”のではない。洗面所の鏡に映った骨と皮の自分の姿を見て、あと半年生きて2016年の正月を迎えられるとは思えなかったのだ。  
思うのは本能だ。俺はその時、自分の寿命がほどなく尽きるのを知った。悟ったと書くのが作家らしい。  
女房殿は「貴方はしぶとくて、撃っても切ってもくたばらないから“みみずのナオちゃん”と呼ばれたんでしょ。今回も大丈夫よ」と励ましてくれたのだから、こいつはいい相棒なのだ。  
少し気を取り直した俺は、夏をスイカとガリガリ君、それに井村屋のあずきバーで凌ぎ、秋は牛肉と豚肉で乗り切って、暮れには76キロを超えていたのだから、確かに俺はしぶとい。  
8時間おきに飲む抗癌剤が、効いているのかどうか。副作用もほとんど無いのだから、あまり効いているようにも思えないのだが、少しは見られるような体型に戻った俺は、雑煮を鱈腹食べ、慶応高校で同級だった京野さんが送ってくれた美酒爛漫をグイ呑み一杯だけ呑む。一杯だけだから呑むじゃなくて“飲む”かもしれない。  

女房殿が持ってきてくれた年賀状を見る。  
高円寺にお住まいのゆきさん(正しくは、ゆき江さん。俺はずっとゆきさんと呼んでいた)から届いた年賀状に目が留まって、俺は胸が詰まる。“ことし九十九歳になります”と書いてあったのだ。  
ゆきさんとの仲は永い。俺が生まれて七ヶ月の時、父の任地だったロンドンに行くことになって、女中さんとして一緒に海を渡ったのが、ゆきさんだ。    

姉二人は森村学園に通う小学生だったから、母の実家が預かることになったのだが、兄は五歳、俺は一番手のかかる幼児だったので、母に女中さんを付けたのだ。
前回、前々回と既に書いたことだが、俺の父方は大正年間の第一次世界大戦で財を成した船成金だ。母の実家のほうがスケールが大きい。  
いくら当時の日本郵船でも、海外赴任の家族に女中さんまで手当てしてくれたとは思えないから、ゆきさんは梶原家が手配したのに違いない。  
ゆきさんは、湯河原のヨシハマ、多分吉浜だろうが調べるのにはデスクの椅子から身を起こして十二畳間を縦断して、本棚の一番下の棚から四センチほどの厚さの日本地図帳を出し、今の療養中の俺には二トンもあるかと思えるほど重い本を、デスクまで運ばなくてはならない。  
本棚の前に膝を突いて大きくて重い地図帳を引っ張り出そうとすると、三回に一回はバランスを崩してつんのめりそうになる。  
俺は臆病というよりむしろ、とても慎重な男だから七十八まで、ヒパロ族にもシンジケートにも殺されなかった。ヨシハマの字を確かめる為に危ないことをするわけにはいかない。  
と、ここまで書いたら、女房殿が「湯河原に吉浜海岸っていうのがあるわよ」と、パソコンで調べて教えてくれた。  
そうだった。ネットがあった。俺は今でも地名を調べるのは地図帳、漢字を調べるのは国語辞典や漢和辞典、というのが身体に染み付いている時代錯誤な爺いなんだ。  

まだハタチ前だったゆきさんは、慎重な祖母の梶原ウメの眼鏡に叶って、赤ん坊の俺係の女中さんになった。  
あ、ここで毎度のことだが余談になる。日本語の話だ。英語で言えばメイドの“お女中さん”のことを“お手伝い”なんて言い出したのは、テレビ局の青二才どもだ。  
この餓鬼タレどもは、女の人たちを女性、御飯のことを食事と言い、あろうことか寿司テン、蕎麦テン、トンカツテンと言い出したのだから、俺はもう嫌になる。「屋」で何がいけないんだ。魚屋や八百屋にサンを付けることも知らねぇのか。どこかの八百屋や魚屋や寿司屋や乾物屋の親爺が文句でも言って来たのか?  
昔の少年院に、『八街(ヤチマタ)・中等、二度来る奴は、親のない子か継(ママ)育ち』という哀しい歌があった。テレビ局のバカどもは、まともな家庭で育った奴らじゃない。 何でも勝手に自主規制して、日本語をゆがめるな。お陰でヘンな日本語だらけだ。  

ゆきさんは俺の家族と一緒に、第二次世界大戦が始まる大変な時をヨーロッパで過ごした。日本郵船ヨーロッパ航路の『伏見丸』のデッキで、牛乳が身体に合わず顔中吹き出物だらけになった俺を抱きかかえているゆきさんの写真がある。  
そうそう、このH.Pの『手配写真??』第13回の写真も、伏見丸に乗った家族とゆきさんの写真だ。ロンドンに行き、その後ローマに転勤となり、四年経って命からがら脱出してベルリンから汽車を乗り継いで日本に帰って来るまでずっと一緒だったのだ。  

ゆきさんは俺にとって、かけがえのない素晴らしい『お女中さん』だった。  
東京も空襲が激しくなって、俺たち家族は梶原家の熱海の別荘に疎開したのだが、食べ物がなくて飢えに苦しんだ。今でもその頃の悪夢に苛まれる。飢えと爆撃と機銃掃射、それに白い馬に乗った大元帥陛下だ。  
その頃、ゆきさんの湯河原の実家に熱海から遊びに行って、涙がこぼれるほど旨い白米を食べたのを覚えている。それに大感激したのは蜂蜜だ。甘いものなんか何も無かったから、この味は一生忘れない。  
それから二十年も経って、俺が子分を連れて颯爽(?)と伊勢丹の前の道を歩いていたら、向かいの通りに大分歳を取ったゆきさんがいて、大声で「ナオヤちゃま!」と呼ばれたのには心底参った。  
それ以来、若い衆が俺の留守中に、「ナオヤちゃま〜」、「ナオヤちゃま〜〜」と、絶叫してバカ笑いしているのを俺は知っている。
 


目次へ戻る