第254回 『ご先祖様のこと(その3)』


前回、百年前の日本の金持ちについて書いたが、そもそも祖父は山形県にある福浦村という農村の出身で、一人の明治の男の立身出世物語なのだ。
父祖の地を訪ねた兄が、村のバス停にあった赤い公衆電話から“まるで芝居の書き割りみたいな風景だ”と電話をくれたことがあった。  
俺はとうとう行けなかったが、それが今から30年ほど前の話だから、きっと今はそれなりに発展して、テレビドラマのセットぐらいにはなっていると思うのだが、いずれにしても極く極く鄙びた村だ。  
我が母方の祖父、梶原仲治はこの村から身を起こして、池田山の大邸宅の主になったのだから、孫としてはやはり凄いと思う。
同じ池田山でも皇后サマの御実家より断然、梶原家の方が素敵で立派だった。昭和20年5月、B―29の爆撃で燃えてしまったが、俺ははっきりこの目で見ているのだから間違いない。ちなみに山下さんのお屋敷もこの時の空襲で焼失した。  
「日銀のロンドン監督から横浜正金銀行の頭取になって、それから日本勧業銀行総裁を務めて、株式取引所理事長になったのは確かなんだけど、祖父さんはどうしてこんな屋敷を構えるほどカネを儲けたんだろう?」と、先日会った兄に訊いたら、「悪い噂は何も聞いた事がない人だったから、ただただ感心するだけだ」と言う。
俺の話はウソも法螺も混じるが、兄は真っ当な人だから信じて欲しい。
長女の春枝伯母さんは伊皿子(東京・白金高輪の辺り)の岸家に嫁いだが、次女の俺の母親は遠く神戸の須磨の、それも姑小姑が手ぐすねを引いていた安部家の長男に嫁いだ。  
とにかく当時、船便でロンドンから『タイムス』を取り寄せて読んでいたような梶原家から、地方の旧弊な家の長男に嫁ぐのは、東京と関西の違いも含めて、文化的なギャップは大変なものだったろうと想像がつく。  
母は父の死後3年間、58年に及んだいろんな苦労噺を末っ子の俺に語り続けて亡くなった。  
俺は何人も嫁を貰ったけど、嫁はおろか婿に行ったことも一度もない。
今はすっかり女房殿の尻に敷かれているように見えるだろうが、それは俺が老い耄れてしまったからで、そうなってくるとこの方が諸式上手く行く。威勢が悪くなったら女房殿の尻に敷かれるに限る。世のオヤジや爺さんは早くこの術を身につけた方がいい。

父の月給が160円だった昭和元年に、母の持参金の利子は毎月500円だったと、母から聞かされている。月に500円なら、年に6000円だ。  
今だと父の月給が16万円とすれば、母の持参金の利子は月額50万円で年600万になる。その頃は今のように銀行の利子がタダではなく年に6%から10%だったろうから、母の持参金は今の貨幣価値で1億円近かったと思う。  
父の凄いところは、そんな金を屁とも思わなかったことだ。  
神戸の三業地・花隈で毎晩呑み歩き、ドイツ製のスカール(独り漕ぎの水澄ましのようなボート)を買って、須磨海岸に艇庫まで建てた。写真が本家のアルバムに貼ってある。  
そうして最初の子供である姉が生まれる前には、その金を綺麗さっぱり遣い切ってしまったというのだから、父はスケールがデカい。  
嫁の1億の持参金をたかだか数年で遣い切るなんて、俺だってもちろん出来ない。よく母も実家に帰らなかったものだ。祖父も凄かったが、父も「アッパレ」というしかない。

ジェフとカオル夫婦が家に遊びに来てくれて、「なんだ、結構元気そうじゃない。だったら怠けてないで日記の続きを早く読ませてね」とハッパをかけてくれたから、俺は久しぶりにパソコンのワードを開けてこれを書いている。  
思い出し思い出し書くので、これだけ書くのに3時間もかかった。  
カオルちゃんは素敵な読者だ。俺はガリガリ君を齧りながら、一所懸命この『あんぽんたんな日々』を書き続けるぞ。  

読者の皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。


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