第252回 『ご先祖様のこと(その1)』


退院して以来、介護ベッドを入れて仕事部屋兼寝室になった俺の部屋は、12畳の洋間だ。入り口のドアの横には小型の冷蔵庫が据えてあって、その上には今年女房殿が買ってくれたボーズが載っている。  
普及品の一番安いボーズだが、それまでの安物に比べて、うっとりするような素晴らしい音を出す。これで再生しなければ、ジュリー・ロンドンにもハリー・ベラフォンテにも失礼だったとつくづく思う。  
冷蔵庫とボーズの横の壁面は本棚になっていて、その上に父・安部正夫と母・玉枝のポートレートがそれぞれ額に納められて飾ってある。  
今回は両親のことを中心にご先祖様のことを書く。出来るだけ自慢たらしくならないように心掛けるが、先に言うぐらいだから多分出来ない。  
変わった人だったから、つい俺は自慢してしまうのだ。自民党の高村某や名前も覚えたくない婆ぁの女大臣ではない。俺の両親は自慢して当たり前の人だった。終わりまで呆れずに読んでくれれば、おそらく分って貰えると思う。  

父・正夫は明治35年に神戸の須磨で、祖父・正也の長男として生まれる。西暦しか使わない俺だが、面倒臭いから覚えている通りそのまま書く。
祖父は、夏目漱石や正岡子規と大学の予科で同期だったというのだから、「坂の上の雲」の世界の人で、東京帝国大学・工学部船舶工学科の一期生だったと、祖父から直接俺は聞いている。マンツーマンでイギリス人の教授から教わったのだから、今で言えばICUのゼミだ。  
俺の祖父がそんなことをやっていたなんて、誰が信じるものか。俺の天才的大ウソ吐きの才能というか特技は、父方の隔世遺伝ではない。俺の知る限り祖父はカケラもウソを吐かなかった。  
父は野暮ったい制服の神戸一中から、京都の三高に進み、祖父と同じ東京帝国大学の法学部を卒業した。なぜ息子の俺は学習院はおろか成蹊大学にも行けなかったのか。学歴も世襲であるべきだと俺は主張したい。  
五尺八寸(約176p)・十八貫(約68kg)の父は、百メートルを12秒フラットで走ったという。大正年間だからこんなスピードで走る大男のことを“韋駄天”と言った。  
この美男の韋駄天は、大学でラグビーとレガッタに没頭したという。  
俺は中学の時、陸上競技部のコーチに「どうすれば13秒で走れるようになれますか」と訊いて、「膝を高く上げて、顎を引いて必死に走れ」と、とても科学的なアドバイスを貰ったのだが、無念無想で必死に走っても13秒は切れなかった。もし12秒5で走れれば、俺は作家になんかならずにフライヤースでプロ野球選手になっていたのに違いない。  
父は大学卒業後、運輸省や法務省ではなく、日本郵船に入った。  
これは父の告別式に集まった爺さまたちから聞いたことだが、当時の法学部はドイツ語法学と英語法学に分かれていて、官界に進めるのは独法で、英法は願書を出して山に登って降りてくれば入れたらしい。  
つまり英法はマトモな高校を出ていれば、無試験で誰でも入れたというのだ。ホントか!  
「アベの奴、日本郵船に入ったのはいいけど、自分の机はなかった。名刺はあっても机がないのは普通のことではない。アベは毎日隅田川でボートを漕いでいるか、飛田給(東京都調布市)のグラウンドで泥だらけになっってラグビーをしていた。それ以外の日は上役の引っ越しなんか手伝っていたっけ」と、同期入社の山脇さんは楽しそうに仰った。  
告別式で友達にこんなに楽しそうに語られる父は、ちょっと変わっていたのだろうが人柄はいい男だったに違いなかったと、息子の俺は思った。
父がレガッタと言ったのは漕艇のことで、競艇のことではない。漕艇にはいろいろ種類があって、父が大学と日本郵船でやっていたのは“エイト”という八人で漕ぐやつだ。その他に競馬の騎手みたいな小さくて軽いコックスという舵取りがいて、全部で九人がチームになる。  
父は「漕艇こそが真の団体スポーツだ」と、一杯機嫌の時は必ず、素面でも事あるごとに、息子の俺に言った…と言うより遠くに焦点の合った目で説いた。父親に何かを説かれた想い出のある息子は幸せだと今頃になって思う。  
大変だ。ご先祖様たちを知っている限り書くと上中下三巻の厚い本になる。    
                 (この項まだまだ続く)  


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