第232回 『野球場でビール1杯?!』


中央公論新社の三木さんに巨人・阪神戦のチケットを頂いて、俺は久し振りに東京ドームへ行った。
ナベツネが大嫌いな俺だから、自分の懐からお金を出して東京ドームには行かない。でも野球は見たい。頂いたチケットを無駄にする訳にはいかない。それで女房殿と一緒に日曜日のデーゲームに、俺は総武線に乗って水道橋まで出掛けて行った。  
金曜日まで7連勝してイケイケドンドンだった阪神は、昨日ポロリと負けた。それなら今日は“長ヅラ一番”で必ず勝つ。  
これは花札の“アトサキ”やサイコロの“丁半”のセオリーで、どちらか一方の目が連続して出た後、突然逆の目が出た時に使う。  
つまりサキ・サキ・サキ・サキ・サキと、サキが五回も連続して出た “長ヅラ”が終わって、アトと出た次の一番は、必ずまたサキと出るという博奕のセオリーなのだ。  
だから今日は阪神が勝つに決まっている。 読売の天皇ナベツネもヘボ監督の原辰徳も、このセオリーを知らないから、満員のスタンドを見渡して、今日も勝つぞと思っているだろう。ザマァミロってんだ。  
俺はスタンドでビールを呑むのが好きだ。もう50年も前の話だが、一升瓶を持って野球見物に来る渋谷の不動産屋のオッサンがいて、 後楽園球場でも神宮でも、そのオッサンに会うたびに一緒に日本酒を呑んだ。俺がもう77なのだから、オッサンはさすがにもう野球場にはいない。野球見物はやっぱりビールだ。    

マウンドにスックと立った阪神のサウスポーの顔を見て、ジャイアンツは震える。みんな身に覚えがあるからだ。この手の顔はヤバいと、ナベツネや原辰徳だけではなくコーチや選手も知っている。  
阪神の先発左腕投手はお巡りか看守にクリソだ。巡査の75%と刑務官の83%はこんな顔をしている。これならセオリー通り阪神が勝つと思ったから、俺は安心して最初のビールを頼む。空が見えないドーム球場でも、プロ野球を見ながら呑むビールは旨い。  
女相撲やリンボーダンスを見ながらビアガーデンで呑むビールより、ジャイアンツが負ける試合で、スタンドで呑むビールの方がずっと旨いのはなぜだろう。  
一杯目を呑み終わる寸前、なんとしたことか巨人が先取点を取る。カープと阪神は、巨人と東京ドームでやる時は何故かチヂかんで威勢が悪くなる。先取点を取られちゃぁ駄目だ。その途端にビールが苦くなった。
俺は女学生みたいにため息を漏らした。そして、ここは一息入れようと思ってロビーに出た。女房殿がソフトクリームを食べようと言ったので、女学生になってしまった俺も付き合う。  
10分ほど経ってスタンドに戻ったその時、関本賢太郎が代打に出て、なんと逆転満塁ホームランを打った。夢ではない。俺がソフトクリームを舐めている間に、走者は塁に満ち満ちていた(この“走者は塁に満ち満ちて……”というのは、野球好きだった正岡子規の短歌から拝借した)。
二杯目のビールを呑んでいれば、もっと凄いフレーズが沸き出して来たのに違いない。  
それはともかく、関本のホームランのお陰で、博奕打ちのセオリーは守られ、俺は幸せな気分になった。  
周りの人は老いも若きも、綺麗な女もそうでない女も巨人ファンだったから、俺はずっと控え目にして、二杯目のビールも呑めずにいたんだ。阪神が逆転しても、あまり露骨に大喜びするわけにもいかない。77の俺は、もう喧嘩はおろか痴漢だって無理だ。  
二杯目のビールは遂に呑めず、ゲームは阪神の輝かしい勝利で終わった。

縁起でもないことを不用意に言うと、ろくでもない大渦巻きに巻き込まれて大変なことになると、これはセオリーではなく多年の経験で承知しているのだが敢えて書く。  
これが俺の最後の野球見物になるかも知れない。  
ビールを一杯しか呑まなかったなんて、遥か60年も前の中学の頃以来のことで、自分が年を取ったことをつくづく思い知る。  
しかし俺が思い知ったからと言って、世の中が何か変わるわけじゃない。俺の生活だってたいした変化はない。  
これが、♪ありの〜まま〜のぉ〜♪今の俺の姿ということだ。


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