第231回 『能ある鷹は爪を隠す』


二人と一匹のウチの一家は13年前に、武蔵野市から杉並区に引っ越した。クロネコヤマトの驚嘆すべき引っ越し技術は、多分以前に書いたので今回は書かない。
敷地いっぱいに、3階建てで4LDKの四角いタイル張りの家が建っている。ウニと俺の衣食住の全ては、一番偉い女房殿の管理下にあるのだが、こうなったのにはワケがあって、女房殿が特別横暴な絶対専制君主だからではない。
俺に相談すると、たとえパンツの柄でも、朝メシの干物を鯵にするかエボ鯛にするかでも、TSUTAYAで借りるDVDさえ、なかなか決まらない。うっかりすると古いパンツを穿いたままで寿命が来てしまう。パンツの寿命ではない。俺の寿命だ。  
ウニが喋る松山訛りのネコ語は、8年一緒に住んでいても女房殿には分からないから、ウニは相談に預かれない。  
ワールドカップをテレビで見ていた女房殿が「あ、予選リーグでスペインが負けたのはポンコツでしょう。テラ取りのカッパギだね」と、眉を顰めて呟いたのは関東のゴロツキ語だ。翻訳すると、“前回優勝したスペインがベスト16に入れなかったのは八百長で、胴元は丸儲けした”と女房殿は専門的に語っている。  
俺は外では気をつけているが、ウチでは時々昔の暗黒街の言葉が出る。26年も聞いていると、女房殿もそういう言葉が口をついて出るようになった。きっとあと18年経てば、ネコ語も上手くなるかも知れない。  そういうワケでウチのことは、全て女房殿が決める。  

「壁も天井もだいぶ汚れてきたから模様替えをするわ」。  
全部いっぺんにやると居場所がなくなるから、一部屋ずつ一週間くらい掛けて内装屋さんが工事に入ると女房殿が言う。壁紙を貼る時には、家具はみんな部屋の中央に寄せるので終わるまで部屋に入らないで、というお達しだ。
ウニは驚いて聞いていたが、俺が黙っていたのは出来た人間だからだ。
知らない振りをして頷いて聞いていたのだが、実は俺は内装工事に関してはただの大学教授ではなく、大学院特任教授ぐらいの専門知識がある。
俺のような振る舞いを昔の人は、「能ある鷹は爪を隠す」なんて言ったんだ。  
前刑を出所して、一家の総長に詫びを言ってカタギになった俺は、後援者の勧めで「デコールジャック」という内装工事を請け負う会社を作って、今よりずっと偉い社長になった。  
ところがニワカカタギが繁盛するほど業界は甘くはなかった。そして女房殿と一緒になった頃には、もう「デコールジャック」は登記簿謄本にあるだけで、影も形も匂いだって残ってはいなかった。  
しかし僅かな年月でも、俺は世界に冠たる「デコールジャック(いい名前だろ)」の社長さんだったんだ。  
後楽園の横の通りにあった大病院の内装も、 俺が請け負って看護婦さんにとても喜ばれた。 内装工事じゃなくても、俺が指を触れると娘さんは喜ぶらしい。  

若い職人さんたちが家にやって来て、ウニが平静を欠いて背中の毛を逆立てている間に、三階の女房殿の寝室から工事は始まる。家具は部屋の真ん中に集められ、カーテンレールも額も外されて、職人さんたちが働き始めた。  
専門技術があることはヒケラカさなかったから、俺には誰も何も頼まない。これから約一週間、俺の仕事はウニの看守だとウチの絶対専制君主は言う。  
猫は壁紙を引っ掻くし、糊は舐めるし、脚立の下をグルグル走り回って危ないから、工事をしていない部屋に閉じ込めておかなければならない。  
看守の俺は自分のコーヒーと煙草だけじゃなく、ウニの砂箱も爪研ぎも餌皿も持って一緒に独居房に入った。  
女房殿は職人さんにお茶を出したり、通常の主婦業もあって忙しく立ち回っている。これから一週間、俺はウニと一緒に家中、工事をしていない部屋を転々とする。  
女房殿が選んだ壁紙は柄合わせが必要なのが多いので、神経を遣うと思うのだが、さすがプロの技で、職人さんたちはテキパキと仕上げていく。  
女房殿は奇をてらう性格ではなくて、むしろ常識に順応するタイプなのに、選んだ壁紙はオーソドックスとはかけ離れたアバンギャルドなものだった。  
俺はサンプルを見せてもらったが、値段も聞かされていないし、同意は求められたけど決定には加わっていない。つまり一応会議には参加したけど、それは言ってみれば顔を立てる儀式みたいなもので、壁紙でもカーテンでも、色や柄まで全てウチの一番偉い人が決める。  
ウニはともかく、俺がもし内装工事使用材料決定会議に参加していたら、間違いなく年を越していた。もしかすると3年がかりになっていたかも知れない。  
女房殿は方針を決めると、あとは仕事が早い。あれやこれや無駄に時間をかけて悩まない。思えば八ヶ岳に山小屋を建てる時もそうだった。俺が主張したのは、二階にもトイレを造ることと、仕事部屋に地球儀を置きたいと言うことだけだった。あとは全部女房殿が決めた。余談だが、この当時二軒の家に5つトイレがあるのが、俺たち夫婦の密かな自慢だった。  
七十七歳の俺は、剛力彩芽チャンが日本一いい女だと、そんな分かり切ったことを決めるのに、30分もかかるグズな老い耄れなんだ。
そんなことは自分でよく分かっている。  

工事の最初の日から、俺は思いがけない問題に直面する。  
ウニのトイレを持って入って、部屋のドアを閉めたのまでは計画通りだったのだが、なんとしたことか一時間も経たないうちに看守の俺がトイレに行きたくなった。  
ドアを開ければ、ウニが「待ってました!」とばかりに飛び出して、工事の視察に出てしまう。老いた俺にはウニを遮りながらドアを開閉するスピードがない。  
それから一時間、女房殿が「ウニはおとなしくしている?」と覗いてくれるまで、俺は教室でトイレを我慢している小学生みたいにモジモジしていた。
誰もねぎらってくれない俺の苦労をよそに、作業は順調に進んで、先週工事は無事に終わった。ガラリと印象が変わった今回の家の内装に、俺もウニも大満足だ。


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