第230回 『恐怖のメール』


還暦が近い筈の甥が久しぶりでメールをくれた。俺の長姉の長男で、子供の頃はよくプロレスごっこをしてあげた仲だ。
俺の新刊本を本屋で見かけたという話のあとで、姉のもの忘れが多くなった、と書いてある。そう言えばここしばらく姉から電話はない。  
俺も短い返事を送った。
“俺なんかもっと非道いぞ”と書いてから、三人で代わる代わる電話を掛けてあげろと俺は書き加えた。  
三人と書いたのは、長姉には息子が三人、しかも年子でいるからだ。姉は十七の時、二つ違いの妹を結核で亡くしてから、急に宗教心が芽生えたらしく、看護学校を出たあと聖母病院で働き始めた。  
ローマンカソリックの病院だから、看護婦はみんな信者で、呆れたことに無給だった。姉は母から小遣いを貰っていたらしい。“らしい”と曖昧な書き方なのは、早々とグレた俺はその頃すでに家を出ていたので、実家のことにあまり詳しくないからだ。  
しばらくして霞町の教会で、姉は外科医と結婚式をあげた。そして二人共、敬虔なカソリック教徒だから、天下御免で盛大に三人、年子で子供を作ったわけだ。  
ごく控え目な書き方だが、甥は八十六になる姉の判断力を危ぶんでいるのだろう。思い出せば母にも、同じような時期があった。昭和六十三年に他界した母は晩年、勘違いや妄想が激しくなった。  
いち早く気がついた姉は、すぐ兄と俺に連絡をくれたから、老いた母の妄想で俺たち兄弟の仲がおかしくなるようなことはなかった。 これから似たような事態が姉の一家にも起こるかもしれない。こればかりは予防法も治療法もなく、対処法があるだけだ。  
普段は暢気な極楽トンボを決め込んでいる俺だが、東電の原発事故を知った時のように心が重くなる。

四人兄弟の中二人、つまり次姉と兄は、父に似て物理や数学に優れていた。長姉と俺、つまり一番上と末っ子は、母方の梶原系の性格や能力を受け継いでいる。  
算数は鶴亀算がやっとだったが、その代わり喋ることは得意で、ハガキや手紙を書かせれば、貰った相手を唸らせる。  
その姉がオカシくなったら、間もなく俺の番だ。警察と税務署は巧くかわせても、母方伝来のこういうことは逃れようがない。  
もうちょっと経てば、俺はあらぬことをマコトシヤカに喋り始める。今だって人にはそう思われているかも知れないが、はっきり言ってこれは仕事としてやっているのだ。  
しかしそうなると周囲の人はダイ大変だ。  
ウチの場合は二人と一匹の所帯だから、 俺が根も葉もないことを突然安倍晋三みたいに確信を持って言い出すと、女房殿と日本一可愛いウニが困る。  
俺はずっと、アル中とポン中にだけはなるまいと超人的な努力を続けて来た。その悲惨なことをよく知っているからだ。安倍晋三なんかより誠実に一家を支え、ズブロッカもオリーブを二個入れたべリードライのマテニも呑まず、注射器も遠ざけて過ごして来た。  
それに今では日本一可愛い剛力彩芽ちゃんだって、俺には寄っては来なくなった。アル中もポン中も防げるし、女出入りは気をつけようがあるが、俺は梶原仲治とウメの孫で、旧姓梶原玉枝の息子だ。誇りに思っていた梶原の血脈が今、俺を悩ませる。  
もう間もなく、俺は作家そのものになる。 口を開ければ根も葉もないどころか、自民党みたいな嘘ばかり言うようになる。  
常識的で真面目な女房殿が、元ゴロツキで前科モンの俺と一緒になると決めた時、女房殿の周囲の者たちはみんな心配したらしい。  
あんまりウルサいので「私は97%の常識と3%の狂気で出来ているの。アベはその逆で、3%の常識と97%の狂気で成り立っているから、案外うまくいくかもよ」と言って周囲をダマラせたのだそうだ。  
俺は今83.5キロだから、詰まっている常識や良識は、その3%の2.5キロだ。年内にあと3キロ痩せるつもりだから、もとから僅かな常識が全部なくなるかもしれない。
女房殿とウニの苦労を思うと、俺はやはり少しばかり暗澹となる。


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