第229回 『三番人気、単勝560円』


27年前に『極道の恩返し〜ワルの馬券術』という本を書いたら、65万部も売れた。今ではとても信じられない。
その前の年に俺はデビューしたのだが、ヤクザ・ゴロツキが表舞台に出るのがよほど珍しかったのか、まるでブームのようになって出す本出す本、50万部以上売れた。  
もう今更その当時のことなんか、誰も訊いてはくれないけど、なんとか喜寿まで生きながらえると、ついその頃のことを思い出してしまう。  
先日、深夜のテレビ番組で江戸の昔をよく知る爺サンが当時のお侍にあった、今で言う年金というか捨て扶持と、商家や豪農の財産分与について語っていた。藩や幕府からの捨て扶持を貰える老侍や、隠居代を確保して子供に家督を譲った町人や百姓を“楽隠居”と言った。そんな余裕のない不運な年寄りは、 “素隠居”と呼んだのだという。  
乳幼児の時に亡くなる事が多くて,この頃の平均寿命は40歳くらいだった。運良く病気や戦、天災などを生き抜いて長生きしたとしても、せいぜい60歳くらいまでだ。  
俺はブームが終息した頃に一緒になった女房殿のお陰で、どうにか楽隠居の裾に取り付くことが出来た。  
酒は飲まず、競馬や競輪、パチンコもやらない女房殿は、ほぼ四億円あった俺の借金を返済して、それからも節約を続け、なんとか今の暮らしに辿り着いた。  
あとは二人と一匹の健康にだけ気を配って、 プカリプカリと海に漂うクラゲのように生きていきたいと言う。ヘンな事を言う女だが、 異を唱えることもない。 
ダービー当日、JRAのホームページを見たら、2番枠の“ワンアンドオンリー”が3番人気で、単勝のオッズは5.8倍になっていた。  

ダービーの前売り開始は前々日の金曜日で、その日の集計では「ワンアンドオンリー」の単勝は2.7倍、1番人気だったのに俺は「オヤッ」と思ったのだ。
ダービーで1番人気に支持されるのは、皐月賞を勝った“イスラボニータ”が順等だったからだ。金曜時点の前売りだと言っても、巨大売り上げを誇るJRAの大看板レース・ダービーだから、余程の金がブチ込まれないと、“ワンアンドオンリー”が1番人気にはならない。  
順等だったら“ワンアンドオンリー”は3番か4番人気で、単勝人気は6.0倍以上、“イスラボニータ”への被りようによっては、10倍近くなっていても不思議ではなかった。  
それが1番人気で単勝オッズが2.7倍だなんて、これは明らかに異常投票だ。  
異常投票と言っても、八百長とは違う。前売りで“ワンアンドオンリー”が2.7倍の1番人気になったのは、この馬の勝利を確信した輩が、どさっと金をブチ込んだということだ。スポーツ紙やテレビを見て予想したカタギのファンには、オッズをこんなに狂わすほどは買えない。  
株と競馬は違うんだ。株はタダになっても、子供に紙飛行機を折ってやれるけど、馬券は外れたら最後、尻も拭けない。あっ、今はもう電子化されて紙の株券はなくなったんだ。  
そんなことはさておき、中央競馬の馬券の売れゆきは、プラス情報の量に比例する。つまり二重丸が多く付いている馬の馬券が、シルシが少ない馬よりたくさん売れるということだ。  
人気に比例せず特定の馬券が売れる現象を“異常投票”と称して、俺は馬券術の本を書いた。まだ連復馬券の時代で、連単も3連単もない。  
作家になれて嬉しくて堪らなかった俺は、もう馬券で凌ぐヤクザな暮らしは終わったと思って、若い頃に編み出して秘密にしていた自分の馬券術を、たった一册千円で公開した。  
簡単に言えば、異常投票を見つけて、それに乗る馬券術だ。未勝利戦でも条件戦でも、この馬券術はよく当たった。馬主と調教師サイドが勝利を確信した馬は、驚くほどよく走った。  

最近はすっかり競馬から離れて楽隠居を決め込んでいた俺は、今年のダービーの前売りオッズを見て「あ、まだ同じことをしていやがる」と呆れた。  
競走馬は3〜4年で変わるから、「オカシイ」と思ったファンもすぐ忘れる。馬主・調教師サイドは、何度でも何年でも同じ手口を繰り返す。だから1日12レースの内のほとんどに異常投票はある。  
ダービーは“キエ”る馬がいない特殊なレースだ。芝を一度も使っていない馬だって,ダービーに出るとなれば全力を尽くす。出走した全馬が“ヤリ”の珍しいレースなのだ。  
前売りを見てカタギのファンは、皐月賞馬の“イスラボニータ”が意外にツクことを知って喜んで買うから、結局レース当日までにプラス情報に添った線で売り上げは落ち着く。  
俺は発走15分前に、3番人気、単勝オッズ5.6倍に下がった“ワンアンドオンリー”の勝利を確信した。  
単勝はたいしてオイシくなかったが、ワイドの2−3は喜んで飛び上がるほどオイシかった。だって100円玉が、5210円に変わったんだぜ!  
しかし飛び上がって着地した時、自分の体重を支えきれず足首を捻挫した。やっぱりイイ事づくめの“楽隠居”は遠いのか……。


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