第226回 『70年間、野球漬け』


俺が初めてプロ野球を見たのは小学校4年の時だったから、昭和22年いや23年かもしれない。
金星スターズとドラゴンズのオープン戦で(ドラゴンスが中日ドラゴンズだったか名古屋ドラゴンズだったか、60年以上も前のことだから定かではない)、プレイヤーもたった一人、スターズで先発した三富恒雄を覚えているだけだ。華奢なサウスポーで、生まれて初めて見た流麗なフォームだったから強く印象に残っている。  
勝敗は全く覚えていない。スターズの外野手に玉越忠義がいたことを、この原稿を書いていて突然思い出した。書いていると次々に思い出す。坪内道典という小柄なオッサンが、スターズのセンターだった。  
なにしろ戦争に負けて2〜3年しか経っていない頃だから、ひもじかったことだけヤケにはっきり覚えている。  
2年生の夏休みが終わって、オフクロが作ってくれた布のボールで始めた三角ベース(ベースが四つある今の野球ではなく、一塁と三塁だけの野球)は、それまでやっていた“駆逐・水雷”や“缶蹴り”“泥棒・巡査”より桁違いに面白くて、俺はすぐ夢中になった。  
6年生になると三角ベースは卒業して、ボークもインフィールド・フライもある野球をするようになったのだが、日本はまだ貧乏だったので、どこの家でも子供の野球道具まで手が回らない。  
軟式野球でも結構道具は要るんだ。キャッチャーはプロテクターとレガースはなくても、マスクは要る。試合ボールだって最低二つはすり減っていない健康ボール(メーカーの名前)を用意しなければいけない。  
すり減ったツルツルのボールは、ナチュラル・カーブが曲がり過ぎてどうにもならなくなる。ツルツルのボールだと、野手の送球だってまるでピンポン球を、力一杯投げた時のように、あらぬ方に飛んでいってしまう。だからファールでもホームランでも、ボールが視界から消えると、両軍全員で一所懸命探す。  
チェンジになると自分のポジションにグラブやミットを置いて、手ぶらでベンチに戻って来る。ファーストミットなんか、持っている子はまずいなかった。敵も味方も同じ道具を使うのだから、これがアメリカが教えた民主主義なんだろう。  
月曜日から土曜日まで、雨でなければ放課後は毎日クラス対抗の試合をやり、日曜と祝日はバックネットを巻き付けた竹竿をみんなで担いで神宮外苑に行く。その頃、外苑には野球場とラグビー場しかなかった。早朝にいい場所にバックネットを押し立て、俺たちは陽が暮れるまで四試合でも五試合でもやった。  
俺はピッチャーかキャッチャーで、自慢じゃないけどドロップでストライクが獲れたし、ナックルボール(抜いた球)も投げて相手のバッターを驚かせた。  
昭和40年頃になって大人になっていた俺が、「あの頃、昼飯はどうしていたんだろう?弁当もパンも喰った記憶がない」と、当時の少年野球の仲間に訊いたら、みんなも食べた覚えがない。多分水だけ飲んで、陽が暮れるまで夢中になって野球をやっていたんだろう。  

極くたまに俺たちは後楽園球場に行って、プロの試合を喰い入るように見た。  
セネタースの白木義一郎と黒尾重明も見た。川上哲治さんも逆シングルの白石勝巳さんも見た。子供の頃の俺は巨人ファンだったから、平山菊二さんも別所毅彦さんも青田昇さんも、みんな“さん”付けだ。大嫌いなナベツネはまだ大学生で、読売には入ってもいない。  
それまでは誰も投げたことがなかったスライダーを、初めて投げたのはジャイアンツの藤本英雄だ。カーブと違ってスライダーは、ほとんど水平に曲がる。もちろん重力があるから、ボールは曲がりながら落ちるのだが、藤本英雄のスライダーはド真ん中からホームプレートの端まで水平にスライドして、それから落ちる。  
こんなボールを投げられたら、プロのバッターでも打てないと藤村富美男と小鶴誠のファンだった俺は、「こんなボール、どうしたら投げられるの?」と雑誌の写真を見ながら首を捻った。  
今のピッチャーが投げるスライダーは、握りだけで、ボールの軌道はアウトカーブとほとんど変わらない。  
フォークボールを初めて投げたのは、帝京商業から明治大学に行き、ドラゴンズに入った杉下茂だ。杉下茂のキャッチャーは、両膝を地面に着けて捕球する藤原鉄之助で、この男は三百匁のバットを振り回した。大下弘でも二百四十匁だったのだから、打率とホームラン数はともかく、藤原鉄之助はそれだけで俺の記憶にいつまでも残る。  
20年ほど前に、大洋ホエールズの伊藤勲が、自分が使っていた三百匁のバットを俺にくれた。こんな重いバットを振るのは藤原だけではないと言いたかったんだと思う。  
タイガースの藤村富美男は、他のバットより2インチも長い“物干し竿”と言われたバットを振って、ホームラン王になった。  
長持(ながもち)栄吉とか一言多十(ひとことたじゅう)なんて、変わった名前のプレイヤーがセネタースにはゴロゴロいた。
             (この項続く)                  


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