第223回 『トホホの日本海特別』


これは確か昭和39年か40年の昔噺だ。俺は27〜8歳、渋谷安藤組の若い衆で男の売り盛り、白いキャデラックに乗ってブイブイ言わせていた。
その頃、船橋競馬で走らせていた『ダイナンプウ』は、サラブレッドではなく血量ギリギリのアラブ(血量が75%以上ないとアラブでは登録出来ない)だったが、当時よく行われていた混合レース(能力試験さえ通っていれば、サラブレッドでもアラブでも何でも来いというレース)で何度もサラブレッドを負かした、強くて速いピカピカのオープン馬だった。  
南関東公営の船橋をベースにして、大井・川崎・浦和はもとより、北関東公営競馬の宇都宮・足利・高崎と転戦した『ダイナンプウ』だったが、遂に10歳になって年齢制限に引っ掛かり、出走するレースがなくなってしまった。
馬主の俺は“渋谷のタネンマ”と異名を取った男だが、血統が良くないどころか非道く怪しかった『ダイナンプウ』は、種牡馬にもなれない。  
競走馬のほとんどは、末路が哀れだ。その当時は業者が400キロ以上の馬は一律2万6千円で持って行く。尻の革はコードバンという、重いけど良く光る男モノの短靴になると聞いた。  
どこか大学の馬術部で引き取ってくれれば、馬は一番幸せなのだが、なかなかこちらの都合良くコトは運ばない。  
困り果てていた俺に、「益田の競馬場なら年齢制限なんかないよ」と教えてくれた男がいた。地図を見たら島根県の日本海に面した西の外れ、南側が中国山地で、その先は広島県だ。俺の人生で、それまで全く御縁のない土地だった。  
電話を掛けて聞いたら、年末にある“日本海特別”が、益田競馬場のグランプリレースだと教えてくれた。『ダイナンプウ』をまだまだ走らせたい俺は、いくらだったか忘れてしまったが、すぐ登録料を郵便局から払い込む。そして、今はもうどこにもないだろうが、小さな2トントラックを馬運車に改造した車を見つけてきて、俺と馬丁の二人で馬を載せて益田まで行くことにした。  
テキ(調教師のこと)は勝てるレースを探すのが仕事で、わざわざ益田まで馬を運搬するのは仕事ではない。  
高速道路なんて、まだ東名もなければ名神も開通していない。舗装されている道路の方が珍しいくらいだ。ホコリっぽくてデコボコで、ひと雨降れば、道はグチャグチャになる。その当時、レギュラーガソリンが1リッター62円だった。俺はヘンなことをよく覚えているんだ。

「荷台に積むとすぐ馬が食べちゃうんで…」と馬丁が言うので、仕方なく飼い葉は運転席と助手席の間にギッシリ山のように積み込んだ。この当時は、“厩務員”なんて言葉はなかった。
馬の世話をする人は、“馬丁”か“別当”と言った。
何でも早い方がいいと思ったから、12月の初旬には船橋を出発した。俺が運転手で、馬丁は馬の世話以外にナビゲイターも兼ねている。  
「さぁ、益田へ行って“日本海特別”を獲って来るぞ」と、俺は高らかに叫んでひたすら西を目指した。  
メーカーは覚えていないが、走行距離計は8万キロを越えていたから、たぶん18万キロか28万キロは走っていたのに違いない。ガタピシボロボロの小型トラックで、ラジオは壊れているし、ヒーターのファンは、きしみ音と一緒に辛うじて回っている、といったシロモノだった。  
船橋から益田まで、知らない道を800〜900キロも走るんだ。走り出してすぐ分かったのだが、俺が連れて行った馬丁は五十を過ぎたオッサンだったが、地図に書いてある地名も満足に読めない。これじゃナビゲイターが務まるわけがない。  
「生まれは福島で、母親は栃木県出身です」と、助手席から飼い葉越しに非道い訛りで喋る。俺はなにかイヤな予感がした。  
それでも馬主の俺は、“日本海特別”を勝っていただく一着賞金の中から5%、この馬丁に払わなければいけない。益田競馬場のテキに10%、ヤネ(騎手のこと。乗り役とも言う)に5%払うから、馬主が手にするのは賞金の80%なのだ。  
行ったこともなければ、親類も友人も一人もいない、父祖の地・神戸よりまだずっとずっと先の島根県益田を目指して俺は必死にハンドルを握る。横浜で、焼売弁当を馬丁と食べる。地図を見ると益田は、気が遠くなるほど遙か彼方だった。                       
                 (この項続く)


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