第218回 『栗きんとん・愛』


去年も同じ頃に、同じようなことをどこかの媒体に書いた記憶があるから、俺はまだそんなにボケていない。
老人内科へ昼頃診察に行って、担当医に「朝御飯は何を食べましたか」と訊かれて思い出せない、あるいは食べたか食べてないか分からない…というのがヤバイのだそうだ。俺は食べ物には人一倍執着があるから、まだしばらくは大丈夫だ。  
名詞、特にセシル・オーブリーとか嵯峨三智子なんて、俳優の名前が思い出せなくて困る。それに同時に三つのことを言われると、一つは覚えているが、あとの二つは完全に脳ミソから脱落する。しかし今の世の中、それくらいの記憶力の方が長生きするかも知れない。鳩ポッポが言ったこと、菅直人や野田佳彦の言ったこと、安倍晋三の言ったことを全部覚えていたら憤死してしまう。  
父方の祖父は九十六で亡くなったが、直前まで須磨で名だたる、碁と菊造りの達人だった。だから孫の俺が七十六でボケるわけにはいかない。  

四十まではそんなもん、見向きもしなかった俺だが、ふと気が付いたら“栗きんとん”に魅了されていた。若い娘さんたちには聞かれたくないことだが、俺は主役の栗よりも、ネチャネチャした栗に絡みついている奴のほうが好きなんだ。皿に残ったらウニのように舐め取りたいほどだ。
あれでお屠蘇がわりの酒を飲みたい。主役“栗きんとん”、脇役が黒豆や伊達巻きだ。ああなんでこんなに甘いものが酒の肴になるんだろう。若い頃だったら胸が悪くなったに違いない。 
半隠居の俺は、正月朝からダラダラデロデロ呑み続けても、勲章もくれないが、別に逮捕もされない。  
ところでなぜ俺がこんなに愛する“栗きんとん”は、一年中店にないのか?  
この質問を今年一年酔っ払うたびに、俺は繰り返した。同じことを何回でも訊く、しつこい爺ぃだと我ながら思う。  
ホモサピエンスは尋ねることも出来たし、自分の知識や技術を他人に言葉で伝えられたから、ネアンデルタール人に勝って生き残った。喉仏の位置が高い所にあったネアンデルタール人は、呻き叫ぶだけで、言葉を持たなかったと学者は言っている。俺はホモサピエンスの末裔だから、「なぜ栗きんとんを年中売らないのか?」といつでも訊き回る。  
他にも“お雑煮・愛”や“カマボコ・愛”。野菜もあるぞ、“大根・愛”や“かぶ・愛”、オイチョカブじゃない。“あんぽ柿・愛”もある。
どれも五十か六十になってからのものだ。ということは八十になったら、また今まで見向きもしなかったものが愛おしくなるのか?  

正月が終わって一段と寒くなったら、また都知事選挙だ。年末の今の時点では舛添要一が本命で、そのまんま東と小池百合子が対抗と黒三角の詰まらない、というより惨めな選挙だ。  
ゲスな性根が顔に出た奴しか、都知事にはなれないらしい。俺はこの三人がもし都知事になったら、都民も日本国民もやめたい。もう俺は日本の政治家と役人や政商、それにマスコミと御用学者に僅かな余生を汚されたくない。  
あと呪われるのは、死の恐怖につけ込んだ宗教家だ。もしいるとすれば、神は残酷で傲慢な化け物だと俺は強く思っている。  
暖かい南の島に隠棲して、釣った魚をタタキか焼いて食べ、土地の人に花札とサイコロを教えれば飢え死ぬことは多分ない。南の島に競輪場と日本酒がないことだけが心残りではある。  

読者の皆様、どうぞ良いお年をお迎えください。


目次へ戻る