第216回 『運動靴とTシャツのラスベガス』


俺は、ラスベガスが大好きだった。「だった」と過去形で書くのは、せいぜい1970年ごろまでのラスベガスが好きだった、ということだ。  
俺が初めてラスベガスに行ったのは、昭和35年、23歳くらいの頃だった。まだ日本円の持ち出し制限があって、上限は500$だった。ハワイの知人、ハリー・ナカノが身元保証をしてくれて、ホノルルからロサンゼルス経由で飛んでいった記憶がある。  
JALのパーサー時代もサンフランシスコやロサンゼルスから足を伸ばした。その当時のラスベガスで、日本人に会うことはほとんどなかったので、俺にはいい気分転換だったのだ。  
あれは借金だらけになった水原弘が、横浜のハコで唄っていた頃だから、昭和44年の暮だ。  
昭和34年、『黒い花びら』で鮮烈なデビューを飾って第1回レコード大賞を獲り、トップスターに躍り出た水原弘は、その後の不遇の時代を経て、昭和42年『君こそわが命』で、奇跡のカムバックを果たしていた。しかし酒やギャンブル、借金で、再びボロボロになっていたのだ。  
水原弘は、俺が青山でやっていた「ロブロイ」のお客でもあった。  
低音の魅力で一世を風靡した大歌手に恥を掻かせたくなかった俺は、子分も連れず自分で運転して横浜のキャバレーまで行ったのだが、楽屋で見た光景に胸が詰まった。俺より先に楽屋に来ていた金貸しに、口から出任せの言い逃れやカラ約束を言いたてる様子が哀れで、俺は無利子で用立てた集金をする気も失せてしまった。  
気分が滅入って、俺はそのまま羽田の駐車場に車を駐めて、パンナムのボーイング707に乗ってアメリカの西海岸へ飛んだのだ。  
適当に忘れられるから、人間は生きていけるのだが、この時見てしまった水原弘の姿は未だに忘れられず、ラスベガスを思い出す時、必ず蘇る。  
その当時の俺はマスコミの言う暴力団で、正確に身分を名乗れば、二卒会(ニビキカイ)小金井一家新宿東貸し元、矢島武信舎弟、安部直也ということになる。  
30代前半の、男を売り盛りだったから、ゴールドメタリックのメルセデスにふんぞり返って、独り旅なのにファーストクラスに乗り、ロマノフのキャビアでウォッカマテニをダブル・オンザロックスでグイと呑んでいた。
そうだ、思い出した。ラスベガスへ行くのなら、ロサンゼルス経由が普通なのに、この時サンフランシスコ便に乗ったのにはワケがあった。  
フランキー・マニラという年長の古い友人が、「弟子がカウパレスで、セミファイナルの6回戦に出るのでセコンドをやってくれ」と言って来たことを口実にして、一週間東京を離れたんだ。  
忙しい師走に、ゴロツキの大幹部が縄張りを留守にするのには、何かと大義名分や言い訳がいる。もちろん仕事でなんかあるもんか。これは義理に見せかけた、東京を離れる言い訳なのだ。  
仕事にかこ付けて外国に行くのが、その頃の俺の唯一の息抜きだった。味方もいない代わりに敵もいない。気を付けるのはホールドアップだけだ。  フランキー爺さんの弟子は、2回TKOで負けた。当時のフィリピン系にミドル級は重過ぎる。代わりにセコンドを務めた俺に、「サンキュー、靴磨き代だ」とジャクソンの20ドル札を一枚、フランキー爺さんは俺に抛った。  

ラスベガスに飛ぶ便はプロペラ機で、シャンペンフライトという名前だから、離陸して巡航高度に達すると、綺麗なスチュワデスが客にシャンパングラスを配って注いでくれる。  
見回したところ客は田舎者ばかりで、ゴロツキは俺だけらしい。シャンペンなんて言うとフランス大使館が怒る。カリフォルニアのスパークリングワインだ。  
綺麗なスチュワデスに、どうチップをやるか俺は頭を使う。他人と違ったことをやらなければ、垢抜けないタダの田舎モンだ。グラスを回収しに来た娘に、「もう二杯」と呟いて、注がれたのを一息で呑んで、グラスをまた差し出す。  
そうして置いて、もう一度グラスを回収しに来た時、小さな声で礼を言って5$札を畳んで添える。「ベスト・オブ・ラック」とスチュワデスは、キラキラ光る瞳で俺に言った。  
ラスベガスではチップの遣りようで、男の値打ちが分かる。チップの渡し方で、扱いが変わるのだ。ホテルではメイドもウエイターも、コンシェルジュからバーマン、カジノではディーラーやドアマンまでみんな、敬意の表し方や微笑み方が微妙に変わって来る。  
ゴロツキだった俺が、サンフランシスコ経由で行ったこの時は、確かにラスベガスは昔のままだった。男はカジノのクロークのちょっとケバい姐ちゃんに、ステットソンのソフトを、目立ちたがりはポークパイを、片目を瞑って預けたりした。ポークパイというのは上が平らになっている帽子の形だ。豚肉入りのパイじゃない。  
博奕で飯を喰っているギャンブラーは、それぞれ仕立てのいいチョークストライプやペンシルストライプのスーツを着て、靴もコードバンやスエード、市松模様に染め分けたコンビを履いてる者も多かった。  
今のマンモス・カジノじゃない、裏通りの小さなカジノで、俺はブラックジャック専門で遊んでいたのだ。見られてナンボの伊達男が群れていた街が、ラスベガスだった。
 
足を洗って作家になった俺が、16年前に行ったラスベガスは、まるで変わっていた。洒落のめしたギャンブラーは、姿どころか匂いもない。妖しい女は裏通りにしかいない。カジノでいい目に恵まれても、ディーラーにチップを抛る者もいないから、ディーラーが勝手に取るようになった。  客はTシャツの奴までいる。今やラスベガスは、Tシャツと運動靴に占領された巨大なアミューズメントパークだ。  
見栄と気取りのギャンブラーたちと、艶っぽくて妖しく美しい女たちは滅びたのか、それとも何処かに身を潜めているのか。市長も警察も、健全なファミリーランドになったラスベガスに、御満足なのに違いない。 
俺だって毎年のようにマカオに遊びに行くが、ブラックジャックの卓に座ることはもうほとんどない。女房殿が日がな1香港$(13円ほど)のスロットマシーンで遊ぶのを、用心棒としてただ見ているだけになってしまった。  


目次へ戻る