第214回 『もう一度、クルマの話』


前回ヘンテコリンなクルマの話を書いたら、嬉しいことに読者から何通かメールをいただいた。コメント欄を設けていないので、興味を持ってお読みいただいたとしても、わざわざメールを下さる方はそう多くはない。
クルマの話を楽しんで下さる方は意外にいらっしゃると、俺は勝手に思い込んで今回も続けて書くと決めた。

昭和28年、俺が満16歳で取った運転免許は、エンジンの気筒容積が1500CC以内に限定された、小型自動車運転免許だった。当時はニッサンもトヨタも一番大きい乗用車が1500CCだったから、この小型免許は国産車免許だったのだろう。  
俺はこの頃すでに無法者で、6気筒3000CCのプリムスでも8気筒4300CCのオールズモビルでも、知らん顔で乗っていた。  
当時、俺の親分だった安藤昇が乗っていたのは、V-8を載せたクライスラーだった。最末端のチンピラだった俺は運転なんかとんでもない話で、洗車をして磨きあげるのが精々だった。クライスラーは安藤昇のいわば公用車で、プライベート用にはローバーの3リットルも持っていたのだから格好いいというか、とてもお洒落だったのだ。  
その当時チンピラだった俺は、今となっては信じられない非道い話だが、頼まれると僅かなギャラで、赤の他人をブン殴るという小遣い稼ぎをやっていた。右のショートストレートを鼻にでも顎にでもブチ込むのだ。  
日本のカタギはみんな穏やかで平和な人たちだが、世の中には腹の立つ奴もいれば、理不尽な現実も多い。法律で何ともならない時が、俺のようなチンピラの出番だった。  
ある日、乃木坂にあったコスモポリタンというナイトクラブに、取り巻きを連れてよく来るハングレを、みんなの見ている前で5000円でブン殴ってくれと頼まれた。当時の5000円は大金だった。ハングレというのは“半分グレている”という意味で、代紋を持たない、ヤクザもどきのことだ。
物影で…ではなく、衆人環視の所で鼻を叩いて背中から床に倒せと注文が付いたのだから、お祝儀も弾むわけだ。鼻にパンチをメリ込ませると、派手に鼻血も出るし、顔が紫色に腫れ上がるから、依頼人は5000円を払ってでもソイツに恥をかかせ溜飲を下げたかったのだろう。  
しかし4〜5人いる相手の取り巻きもハングレなので、倒したらサッサとその場から姿を消さなければ、こっちが返り討ちにあって生まのハンバーグか鰺のナメロウにされてしまう。  
依頼人がナイトクラブの前に用意しておいてくれたクルマは、『ボルグワード・ハンザ・イザベラ』だった。このドイツ製のクルマはいつか乗ってみたいクルマのひとつだったので、俺は大体のスペックは知っていた。  
当日店へ行って、奥で飲んでいた6人連れに近づくと、誰々さんですねと確認してから、右のストレートをブチ込んだ。ターゲットは鼻を押さえて後ろにひっくり返り、他の5人は全員一斉に立ち上がった。  俺はクルリと背を向けてダンスフロアを横切ると、クロークの横をすり抜けてコスモポリタンのドアから表に飛び出した。何か喚きながらバタバタと追い掛けてくる足音を背中で聞きながら、『ボルグワード・ハンザ・イザベラ』に飛び込んだ。
キーは俺が頼んだように差し込んであったのだが、なんとしたことか捻ろうとしてもキーは回らず、スターターも回らない。俺は焦った。  
追っかけて来た取り巻きが、クルマに取り付いて左側のウィンドを叩き始め、ついにはガラスが割られてしまった。捕まったら最後、身体が幾つあっても足りない絶体絶命のピンチだ。  
その頃の欧州車によくあったのだが、このイザベラもイグニッションとスターターの始動スィッチは別だった。俺はうろたえて、運転席のそばにあるはずのスタータースィッチを探し、右足で床を踏みまくった。  
ついに俺はエンジンを回すのを諦めて、右のドアから転がり出ると市兵衛町の闇に紛れて何とか逃げ切ったのだ。本当に危ないところだった。  
後日知ったのだが、1800CCの『ボルグワード・ハンザ・イザベラ』の、セルモーターの始動スィッチは、ハンドルをイギリス輸出仕様の右にしたクルマに限って、助手席の床つまり左のフロアマットの下にあった。これはドイツ人の手抜きだろう。  
よくまあ、こんな非道いことをやっていたものだと自分でも呆れ返るし、なんと命を粗末にしていたものだと自分の愚かさにも恥じ入る。  
そんな渡世の足を洗って俺がカタギになったのは、今から30年ほど前のことだ。  

しかし、とにもかくにも生きのびたし、カタギにもなったし、あとは喰っていかなくてはならない。作家になれれば、これまで散々な目に遭ったあれやこれやがいいネタになると思って、いくつか短篇にまとめて出版社を回った。  
もちろん金も無く、クルマも無い。原稿用紙の束を抱えて、たまたま右翼の事務所の前を通りかかったら、ホコリにまみれた街宣車が置いてある。見たらまだ車検も切れていなかった。  
「オーイ」と叫んだら二階の窓から知り合いの右翼が顔を出した。俺が「このクルマ使わないの?」と聞いたら、「右翼の街宣車はクルマ屋が下取りに持って行かないんだよ」とボヤいた。  
歩くよりマシだと思って、「じゃぁ俺にくれ」と言ってみたら二つ返事で「いいよ」と言ったのだから、持つべきものは親切な民族主義者の友人だ。  
「北方領土を返せ!」とか、「日教組撲滅!」と車体にペイントされ、窓に鉄格子が嵌めてあるその街宣車で、俺は出版社を回り続けた。  
駐車スペースに空きがあるのに、「そんなクルマはダメッ」と目を三角にして怒られることがほとんどだったが、文藝春秋の守衛のオッサンは、「やぁ、凄いクルマに乗ってるんだね。そう、編集部に原稿を見せに来たのか」なんて、見るからにうさんくさい無名の俺にとても優しかった。  
原稿が売れて小さなホンダを手に入れたのは、出版社回りをしていた頃から3年ほど経っていた。
チンピラが作家に成りおおせたのには、恩人が無数にいるのだが、街宣車をくれた民族主義者と、文藝春秋の守衛さんも勿論その中に入る。   


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