第213回 『ヘンテコリンなクルマが好きだった』


八ヶ岳の山小屋とニッサンのエクストレイルが俺の生活から姿を消したのには、同じ理由がある。俺が老い耄れたからだ。
もう片道2時間運転して、リスや鹿に会ったり、いい空気を吸い込んだりするより、安楽椅子に座って本を読んでいる方が望ましくなったんだ。
山小屋とクルマは、思ったよりいい値段で手仕舞えた。俺の交渉術は何の役にも立ってはいない。全て女房殿が処理してくれた。代金も全て女房殿の懐に入ったのだが、俺は「カスリをよこせ」なんてことは言わない。
カスリというのは、いい儲けをした子分が親分に渡す金のことをいう。太平洋戦争の前からカスリの率は定められてはいない。子分の器量、それは同時に親分の器量でもあるのだが、それによって定められる。今の警察・マスコミ用語で言えば「上納金」だろうが、何でも漢字で書けばいいというもんじゃぁない。
親分に渡すのがカスリで、普段世話になっている姐さんの袂に、そっと落とし込むのがエンソだ。な、こう書かなきゃ雰囲気が出ないだろ。
エンソを「塩噌」と書いた古い小説家がいたが、カスリを漢字で書いたのは俺は見たことがない。“袂”は、タモトと読むんだぞ。着物の袖の袋のように垂れている所だ。最近は普段着で着物を着ている人なんて見かけない。そのうち「袂を分かつ」なんて言葉も死語になるだろう。
と、そんなことはさておき、二人と一匹の一家で親分は女房殿だ。この女房殿が万事、実に良く取り仕切ってくれる。(…とタマにゴマを擂っておくと家の中が平和なのだ)
ウニも俺も、何もしないで毎日が安楽に過ぎてくれるんだから、文句は勿論カスリの話なんてとんでもない。それに俺は二人と一匹の安部家で、ウニより目下の三番目だから、カスリなんか取れる立場ではないんだ。

刑務所に閉じ込められていた時以外、60年も乗り続けたクルマだが、東京に住んで半隠居を続ける限り、電車とタクシーで不自由はない。
今回はクルマの話を書くつもりが横道にそれてしまったが、そんなこと俺のホームページでは毎度のことだ。  
自動車という言葉は好きじゃないから、俺はクルマと片仮名で書く。クルマは自動でなんか動かない。スターターを回してエンジンを始動させ、クラッチを入れてハンドブレーキを外さなければクルマは動かない。動き出してからもハンドルは自分の手で回すんだ。ホラ見ろ。クルマは“自動”車じゃないだろう。自動洗濯機じゃないんだぞ。  
昭和42年頃、東急の五島昇さんの奥様がベンツに乗り換えられて、それまで乗ってらしたモーリス・オクスフォードを俺が譲っていただいたことがある。シートが赤の表皮で張ってあって、ウィンカーがまだ腕木がドアの間からパタリと出るアポロだったのが懐かしい。  
お金があまり無かったこともあって、若い頃の俺はヘンテコリンなクルマ専門だった。そういうクルマは、カタギは眺めるだけで値段の交渉まではしないから、安く手に入る。  
ハンドルの下に付いていたレバーを押し込むと、スピードが出たままエンジンブレーキが解除されて、平坦な道だと何処までもすっ飛んで行ってリッター20キロ以上も走った、DKW(アウトウニオン、デーカーベー。今のアウディの前身)のゾンダークラッセなんていうクルマは思い切り変わったクルマだった。  

慶應高校で同級だった長尾さんから、作家になる以前の、男を売る稼業だった俺に電話があったのは、昭和50年頃だったと思う。
「知り合いの軽井沢の別荘に30年以上もほってあるイギリス車があるけど、興味あるかい?」と言うから、「勿論だ」と俺は弾んだ声で答えた。
長尾さんがサンビームらしいと言うから、俺は 30年以上ほったらかしてあったのなら、アルパインやレイピアじゃなくてタルボットだろうと思った。
自慢じゃないけど、俺は女とネコと、それにイギリス車に詳しい。  
そのサンビーム・タルボットの1951年式は、軽井沢のギャレージでタイヤが三つも空気が抜けて、埃だらけでうずくまっていた。  
俺は牽引することも考えて、ジープにバッテリーやオイルとグリースポンプ、それに圧縮空気のボンベまで積んで行ったのだから、東電やJR北海道よりずっと仕事が出来る。子分は一人だけ連れて行った。  
タイヤに空気を入れ、ボディーとガラスにこびり付いていた汚れを拭い、バッテリーを持って来たものと取り替えると、やっと粗大ゴミかスクラップみたいだったのが、クルマらしくなった。そうだ、思い出した。借ナンバーは親切な長尾さんが取ってくれていた。  
イグニションキーを差し込んでグイと捻ったら、 意外にもセルモーターが回ったので、驚いた俺はカブラないように気を付けながら、チョークレバーを引いたのだった。  
30年か35年か知らないけど、こんなになるまでほっておかれたエンジンが一発でかかったんだから、流石にヒットラーをやっつけた国のクルマだと俺は改めて感心する。  
前進4速のギヤが2速までしか使えないのは、国道に出てすぐ分かったが、それはポタポタではなくポタリポタリとシリンダーブロックからオイルが漏れていたからだ。  
どこかが断線していてメーターはみんなウンともスンとも言わない。エンジンが焼き付いたらそれまでの艱難辛苦が水の泡だから、人が歩くのと同じ速さで、ソロソロノソノソ走って、いやカタツムリみたいに動いて、10分毎に止まってはいちいちボンネットを開けてオイルゲージを確かめた。  
まだ携帯電話なんか無かった頃の話だ。76歳になった今、この時のことを書いていて思うのだが、ほんの40年ほど前はよくこんな面倒なことが出来たもんだ。サキソフォンを上手に吹いた長尾さんは、お元気か?  
今では家から僅か800メートルの居酒屋にだって、面倒臭くて行かない俺だから、自分の劣化が哀れでならない。  
長距離トラックが止まって、運転手が「何処まで行くんだ?」と、オイルの缶を抱えた俺に訊く。
「東京の渋谷だ」と答えたら、「そりゃ大変だ」とミカンを一つくれた。
そして、それから20時間かかって渋谷まで、シリンダーブロックから滴り落ちるオイルを10分毎に気にし、オイルを注ぎ足しながら、気が遠くなるほどの距離を俺は自走して帰ったのだ。  
クルマの話なら上下両巻の厚い本が書けるほどある。残りはまた今度だ。  


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