第211回 『さようなら、土橋正幸さん』


俺は土橋正幸さんが亡くなったのをインターネットで知った。俺と土橋さんの付き合いを知る人はいないから、誰も教えてくれない。  
俺は汗が染み出さないように、ワイシャツの下にランニングを着て、背抜きの黒スーツに黒ネクタイを結んで、青山のお寺に出掛けて行く。花輪も出さず弔電も打たない。香典袋に一万円札を一枚入れる。  
奥様も存知あげないし、他の会葬者とも恐らく挨拶することもないだろう。重ねて言うが、誰も俺と土橋さんの付き合いを知る人はいない。もしいらっしゃるとしたら、佐々木信也さんだろうなと思う。  
その日はとても暑い日だった。少し前にも熱中症で危うく命を落とす寸前だった俺は、家から2〜3分の青梅街道でタクシーを止める時には、もうオデコに玉の汗をかいていた。84キロまで体重を落としても、老い耄れるスピードは加速するばかりだ。  
お寺の名前と住所を告げたら、タクシーの運転手はカーナビをセットして、「ハイ。分かりました」と言う。  

土橋さんとの付き合いは、俺が17歳だった昭和29年に遡る。その当時、東京で強い準硬式(トップボール)のチームは、鶴田浩二さんがオーナーの「鶴田ヤンガース」と「立正佼成会」、「明治座」と俺が所属していた「港クラブ」だった。  土橋さんは「フランス座」のエースで、「明治座」には強化選手として参加していたという記憶がある。  
スピードガンが無かった頃だが、土橋さんは150キロ近い物凄く速いストレートを、野手のスローイングみたいな投球フォームで投げた。その頃のピッチャーは、プロでも大きくロッキング・モーションをして、人によってはボールを握った手をグルグル回すワインドアップをして投げたものだ。  
そんなピッチャーたちの中で、土橋さんはまるでキャッチボールのように、キャッチャーから戻って来たボールを、そのままヒョイと投げ返す。  
ヒョイと投げたボールはウナリを上げてホップするから、ストレートだと分かっていても真っ芯にミート出来るバッターは滅多にいなかった。シュートもカーブも、俺は土橋さんが投げたのを見た記憶がない。  
昭和29年の大会に土橋さんの姿はなかった。明治座の選手に「あれ、土橋さんは?」と訊いたら、「フライヤーズに行ったよ。プロになったんだ」と聞いて、俺は目の前が真っ白になった。羨ましくて、妬ましくて、力が抜けてヘナヘナと両膝を突いてしまった。  
俺は湯川秀樹博士のようなノーベル賞をいただく学者になる夢はなかった。吉田茂みたいな大政治家になりたいとも思わなかった。ただただプロ野球選手になりたくて堪らなかったのだ。  
昭和36年が土橋さんのベストシーズンで、30勝16敗、防御率1.90の記録を残している。 ヒョイと無造作に投げるのに、土橋さんはコントロールが良かった。このシーズン56イニング連続無四球もやってのけている。  

土橋さんの想い出に耽っていたら、運転手が「ここです」と言うから、俺はタクシーを降りた。葬式をやっている気配はまるでない。そこはお寺の裏門で御丁寧に鍵まで掛かっている。困って辺りを見回したら「土橋家葬儀式場」の張り紙に矢印が見えた。  
それから延々俺は矢印を頼りに、青山墓地の中を競歩選手のように、汗を滴らせながら懸命に歩く。  
カーナビと粗忽な運転手のお陰で、ここで花の命を散らすのかと、今年二度目の瀕死の熱中症になりかけた俺は思った。  
裏門も式場入り口も区別が付かないカーナビは、欠陥商品だから訴えてやる。
黒ずくめの俺をお寺の裏門で下ろした不親切な運転手に腹を立てながら、なんとか表門に辿り着き、お焼香をして土橋さんにお別れをした。  


目次へ戻る