第205回 『モノクロだった頃』


ランパル爺さんと一緒に暮らしていたのは、ベスと呼ばれていた矢張りユダヤ人のお婆さんで、二人は1937年までフランスの北端に住んでいた。
ナチの進攻に怯えた二人はブルターニュの漁師に金を渡して漁船に乗せて貰い、イギリスに渡り、たまたま売りに出ていたベイカーストリートの店を買って『カメラ・リペア・カンパニー』の看板を揚げたのだった。
「店の屋上に小屋を建てて、そこに住んだのよ。そして地下をアタシの暗室にしたの。すぐナチの爆撃が始まったけど、アタシはどこで殺されても一緒だと思って、面倒臭いから防空壕なんか入らなかった」
ベスは、大袈裟な物言いはしなかった。戦争中の悲惨で壮絶な話でもアッケラカンと控え目に俺に話してくれたのだ。  
「戦争中はアメリカ兵の客が持ってくるフィルムばかりよ」  
と、ベスが言うと  
「あのころは、コダックのボックスカメラばっかり、売ったり修理したりしてた」  
と、ランパル爺さんも懐かしそうな声で、けど顔は歪めて、その当時のことを語ってくれた。  
そう言えばベスが持っていた写真に、ピカソが一緒に映っているものがあって、俺は驚いたことがあった。  
「若い頃のベスは、とても美しい美術家だったんだ。けど助平な女だった」  
ベスが暗室に入ると、ランパル爺さんはそんなことを小声で俺に言って、片目ををつむって見せた。  
将来を嘱望された人だったと聞いたのだが、美術家と言っても画家だったのか彫刻家だったのか、戦前どの世界で将来を嘱望されていたのかは聞きもらしてしまった。  
しかし、ベスは大した暗室技術を持っていた。  
「“現像”と“焼き付け”に必要なのは、念入りな水洗いと注意力だけよ。一番センスと腕が問われるのは“引き伸ばし”よ」  
と、ベスは赤い豆電球が灯る窮屈な暗室で、若い俺に囁いた。
特別な関係だったわけじゃない。狭い暗室の中で大きな声で話すとうるさくて堪らないからだ。  
ランパル爺さんも、元ピカソの愛人ベス婆さんも、若くて生意気盛りだった俺を大事にしてくれて、いろんな技術を面倒臭がらずに教えてくれた。
お陰で俺は、その頃モノクロ写真では他の若い奴が知らなかったハイキーな引き伸ばし印画を、赤い豆電球の下で自在に作れる技術を身に付けたのだ。  
「中国の画家が墨一色で全てを描いたように、私たち暗室技術者は引き伸ばし機と現像液のバットの中で、赤い豆電球を頼りに美しい印画を生み出すのよ」  
と、ベスは言った。  

イギリスは1952年2月、ジョージ6世が亡くなり、長子のエリザベスが26歳で即位した。翌1953年6月、エリザベス2世女王の戴冠式がロンドンのウエストミンスター寺院で執り行われることになった。  
俺は日本からやって来た朝日新聞の報道カメラマン・熊崎玉樹さんに、アシスタント兼運転手兼用心棒として、一日一ポンドで雇われた。そしてベスに仕込まれた暗室技術が、ここでとても役に立ったのだ。  
俺は4×5インチの大きなスピードグラフィックを振り回して、日本から式典に参列した皇太子(今の天皇陛下)の写真を、何百枚も撮った。  
そしてホテルの部屋のクローゼットの中に豆電球を引き込み、4×5インチの乾板を皿現像したのだ。
熊崎さんがクローゼットの外で時間を計ってくれた。真っ正面からフラッシュを焚いて撮ったネガは、顔が真っ白く飛んで、なかなか目も眉毛も出て来ない。  
「顔がなんにも出てきません」  
と、俺がクローゼットの中から叫ぶと熊崎さんは、  
「舐めろ。眉毛が出るまで何度でも舐めろ」  
と、大声で叫び返す。舐めて温度が上がると、現像液に濡れた印画にだんだん眉毛も皺も出て来るのが不思議だ。
イルフォードでもコダックやアグファでも、D-76や微粒子現像液のDK-20でも俺は現像液の味は、みんなここで覚えた。  
拳銃や女のことだけじゃない。俺はこんなことも専門的に知っていたのだ。ウソじゃない。たまには俺の言うことを信じてくれ。  
このころの俺の夢は報道カメラマンだったのだから、イギリスでは本当にいい経験をした。
それなのに日本に帰国すると、また元のチンピラに戻ってしまうところが、俺のチャランポランで、その場凌ぎのイケナイところなのだった。


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