第204回 『ロンドン中を飛び回った』


これから書く昔噺は昭和28年から30年の話だが、全部ホントのホントだ。書き始める前から、俺はウソと法螺と大袈裟なことは書かないと決めている。
76にもなって、こんなことを最初に書かなくてはならない事態を俺は羞じて、ではなく面倒臭く思っている。  
そうだ、羞じてなんかいない。俺はなんでも面白く書くのが仕事の作家だから、裁判の証拠みたいなホントのことばかり書いていたら喰いっぱぐれる。まだ仕事をしてアベ一家の親分と代貸を支える、つまり現役の作家なんだから。  

俺は中学2年の時、『アサヒカメラ』の月例写真コンテストで特選を獲った。これだけ書くと凄いことみたいだが、今回に限って正確に補足すると、そのころの『アサヒカメラ』にはキャビネ版以上四つ切りまでの“引き延ばし印画の部”と、ライカ版でも手札版でも応募できる“密着印画の部”があって、俺が特選になったのは6×6の密着印画の部だった。言ってみればアマチュアも、ほんの始めたばかりの駆けだしで、大したことはないのだ。  
撮ったカメラはズイコーのF3.5がついていた蛇腹のオリンパスシックスで、シャッターはコパルのレンズシャッターだったと、そんなことだけイヤに正確に覚えている。それなのに他人様に拝借した銭のことはすぐ忘れてしまうから、俺はどうも評判が芳しくない。  
そのころ連動距離計がついていた蛇腹カメラは、マミヤシックスとセミ版のパールだけだった。しかし値段が高くて親に頼みにくかったので、俺はオリンパスシックスにしたんだ。もちろん連動距離計はついていない。  
その当時のカメラの仕様と値段は、国産に限って全部、俺の頭に入っていた。
ライカとコンタックス、それにローライレフやトリオターというレンズがついた廉価版のローライコードは、とても高くて俺には手が届かない。だから俺の知識は国産カメラ専門だったのだが、それがロンドンで思わぬ幸運をもたらしてくれた。

16歳の時、プロペラのSASに乗って一人でローマに行った。母の友人のマダム西田ののところに行ったのだが、「オペラの歌い手か絵描きになるんじゃなかったら、ロンドンに行ってインタナショナーレ(イタリア語で英語のこと)を覚えたほうがいいわよ」と、マダムに言われて俺は素直に従い、ロンドンに住みついた。  
そしてランパルさんという、ユダヤ人の年寄りの夫婦に出会う。二人は第二次大戦の直前にパリからロンドンへ逃げて来て、カメラの修理とDPEの店を、蝋人形のマダムタソーズとシャーロック・ホームズで有名なベイカーストリートに開いた。  
ここまで我慢して読んだ若い読者の為に、DPEが現像・焼き付け・引き伸ばしだと書いておく。  
お爺さんが中古カメラの販売と修理を担当し、お婆さんは暗室でDPEを受け持ってなかなか繁盛していた。
戦争が終わって、まだ8年くらいしか経っていない。リージェントストリートの表通りに爆撃の焼け跡が残っていたころのイギリスだから、対日感情は恐ろしく悪かった。  
そんなロンドンで年端も行かない俺は,大勢の方たちの好意に縋って生きていたんだ。日本に帰りたくても帰れない事情があった。  

ある時、イギリス人の客がアイレスレフという二眼レフを売りに店にやってきた。客もランパル爺さんも、この日本製の二眼レフがどの程度の品か、いくらで売り買いしていいものか分からなかった。  
まだ牛や豚が配給制度だったイギリスでは、カメラなんか作っている余裕はない。だから旅行者や兵士が、日本製のカメラを持ち込んで金に換えることが多かった。  
「ああこのアイレスレフね。戦後のメーカーだけど、レンズもシャッターも上質なものを使っている、マミヤと肩を並べる高級品だよ」と言って、俺は中古の値段まで教えてやった。  
後日談だが、ランパル爺さんは後で、日本にいるユダヤ人の親類に電話を掛けて、俺の日本製カメラの知識を確かめたら、それがとても正確だったから驚いたという。  
そんなロンドンに、日本製のカメラの品質や価格を知り尽くしていた少年がいたんだから、これは希少価値がある。役立つ知識や情報を持っていれば、どこでも喰うに困らないということだ。  
F1.4の標準レンズがついたニコンや、連動距離計がファインダーと一緒になっているキャノンは、大袈裟でもなんでもなくとても優れた製品だった。  
「戦争でこっぴどく負けたニホンが、こんなカメラを作れるわけがない」とか、「日本人は怒るとすぐハラキリをする、木と竹と紙で家も船も作る野蛮人だと聞いているから、このカメラは支那製に決まってる」なんて話は耳にタコが出来るほど聞かされたが、日本の技術力は製品が証明した。

僕はランパル爺さんの店に持ち込まれたカメラだけではなく、ロンドン中の業者を回って日本製カメラの査定をしたんだから、小遣いどころの話ではない。大儲けだった。  
爺さんは35ミリカメラのフォーカルプレーンシャッターも、ツァイス社製のコンテッサというカメラの露出計まで器用に修理していたが、暗室にいた婆さんの腕も凄かった。この話は次回も続く。


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