第188回 『片付けは大変だ』


思い立って仕事部屋の本棚の整理を始めた。女房殿に言われたワケではない。自発的に始めたのだ。こんな些細なことでもイタリア人やスペイン人は、オフクロの頭に掛けて誓ったりするのだが、俺は日本人でラテン系ではない。
ひと月程前に痛み出した右足のアキレス腱も、ようやく痛みが鈍くなって、階段が一段づつソロソロと降りられるようになった。散歩はおろか縄暖簾にも行けなかったから、本棚の整理を思い付いたということはある。とにかく女房殿に言われて、キッキュウジョ(鞠躬如)として取りかかったわけでは、俺の名誉に掛けて絶対にない。  
仕事部屋の壁面に天井近くまである本棚が一杯になって、前の床に本が積み重ねてある状態が、この数年続いている。本棚の一番下の段は、どんな本が入っているのかまるで見えなかった。  
俺はまず、この本棚の前の床に幅一間半、高さ二尺に積み上げられた本と印刷物から片付け始める。  
俺は多分とても特殊な体型をした爺ぃだから、床面の作業をしようとすれば、まず姿勢を考えなければいけない。90sの俺が作業を続けるためには、万全の態勢が必要なのだ。  
本棚の前の本だけでも、たっぷり時間が掛かると睨んでいる。不安定なフォームでは、とても長時間続けていられない。用意周到な俺はまずトイレに行って、それから左膝から床に突いて静かに坐り込む。こんな簡単なことでも軽率に、“エイヤッ”とやると、必ず後で悔やむことになる。急がない時はなんでも駒落としでやるのが、後期高齢者の心得なんだ。  
坐り込んだ途端に俺は、タバコとライターと灰皿を近くに置くのを忘れたことに気が付く。こんな時に“メルド”だの“ケルコン”なんて言えば、フランス人かアルジェの人なんだろうが、俺は日本人だから“コンチクショーッ”と叫ぶ。  
仕事部屋のドアを額で押して入って来たウニがビックリして、髭と尻尾で「どうしたの?」と訊く。余談だが、ネコ科の動物が声だけではなく髭や耳といった全身を使って喋るということを、女房殿も学者も御存知ない。チータはトムソンガゼルに跳びかかる時、背中を震わせて「こいつ喰ってやる」と叫ぶ。  
その時ウニは、髭と34pの尻尾でビックリした。これは余談の付録だが、ウニの尻尾の長さは、ピンク色のお尻の穴から黒い尻尾の先までを、俺がちゃんと女房殿のメジャーで測っている。何でも測り方だ。背中の方から測れば、ウニの尻尾は牡ライオンより長い。俺は科学的な爺ぃなのだ。  
ウニは悪い奴じゃないが俺のアシスタントじゃないから、タバコを銜えて持って来たりはしない。仕方がないから俺は一度いい具合に坐ったのに、手を伸ばして椅子に掴まると、渾身の力で立ち上がる。  
太っている上に足を痛めている俺は、普通の人が難なくこなす日常の動作でもコツや技術を要する。今ではもう座敷で呑む酒も、待合で抱く芸者もままならなくなった。75歳で西洋人になってしまったのか?  

灰皿とライターとタバコを手近に置いて、俺はもう一度慎重に坐り込むと、最初の一冊を取り上げた。本ではない。パンフレットのような薄い小冊子だ。  
片付けるのは、捨てる物を選ぶということで、何でも捨てるのは片付けるとは言わない。坐り込んで最初に手に取った小冊子は、俺が生まれた年の1937年の事物を記した物で、多分アメリカのお土産物屋で買ったのだと思う。俺は絵葉書やこういった物を、若い時からマメに買うんだ。  
その年に起こった大事件のページには、“日本軍上海爆撃”とか“揚子江でアメリカ砲艦パネイ号、日本軍の爆撃で沈没”それに“ピュリッツァー賞小説部門『風と共に去りぬ』”なんて書いてある。  
その年のアカデミー賞主演男優賞はスペンサー・トレイシーで、主演女優賞はルイス・レイナーだが、この女優は俺は見たことも聞いたこともない。作品賞は「ゾラの生涯」だった。  
ユナイテッド航空の広告があって、ニューヨークからカリフォルニアを15時間20分で結ぶと、誇らしげに書いてある。出ている写真はプロペラのダグラスDC-3だ。  
こんな薄いものでも読むのに30分はかかる。そして捨てるかどうか決めなければならないのだから、俺はどうやら大変なことを始めたらしい。
 


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