第183回 『セピア色の記憶』


横浜に行った俺は“みなとみらい”のホテルから、港と街を眺める。父親が船会社の横浜支店長だったので、俺は昭和26年から暫く横浜に住んでいた。その頃の俺はスリムな中学生でピチピチしていた。
今から60年も昔のことだから、俺の横浜に対する想いは古ぼけている。大小様々な鉄筋コンクリートのビルが建ち並ぶ横浜は、俺のセピア色の記憶では、せいぜい二階建ての木造だ。  
そして俺は麻布中学を終わると、日吉の慶應高校へ移った。
“終わると”と書いたのは、卒業して、という印象ではなかったからだ。“追い出されて”と書くほうが正確だろう。  
俺は中学二年から渋谷安藤組だったが、これでまた横浜との御縁が深くなった。  
「カワイ拳があったのはあの辺で、ヨコタイはあの辺りだったな」と俺は思い出す。60年前にはカワイ拳に、スピーディー章(アキラ)という凄いフライ級がいた。ヨコタイは確か正式には横浜体育拳闘会と言って、リングネームは忘れてしまったが、日本のタイトルに何度か挑戦したサウスポーのウェルター級がいた。  
2007年に亡くなったカワイ拳の御曹司で、一時は世界バンタム級の6位にランクされた河合哲朗は、俺より一つ年下で60年前は鎌倉学園中学の一年生だったのだから、俺の記憶はただの記憶ではなく、もう歴史か古典だ。
モヤで霞んでいる山手には、チャールス・M・デッカーさんのお屋敷があったが、この記憶は60年も前ではなくて、もう10年ほど新しい。 俺が日本航空で客室乗務員をしていた頃、デッカーさんは何処が気に入ったのか、とても仲良くしてくださった。ライレーの2.5リットルと1.5リットルを2台持っていらした素敵なジェントルマンだった。  
まだ元町にミズオという肉屋はあるのか?この店にはラムではなくて、ちゃんと草を食べて大きくなったマトンがあったし、他の肉屋では売っていない皮付きの豚肉もあった。  
横浜港の筏師の親方で、ステベドアの藤木海運の社長をしていらした伊藤清蔵さんのお宅も、この商店街の丘の上だった。伊藤清蔵さんと御子息の清太さんに、若い頃ひとかたならぬお世話になっている。  
俺は本当にロクなもんじゃなかった。民主党の小僧や、松下政経塾出身の青二才のことをクソミソには言えない。俺はそいつらを暴力的にしたような、絵に描いたようなチンピラだったのだ。  
しかし、つくづく横浜には恩人が多い。伊勢佐木町に、ボクシング会場のフライヤージムがあった。ジムのすぐ近くにあった根岸屋が俺は懐かしくて堪らない。24時間営業で店内にはフルバンドが入っていて、ナイトクラブとも大衆食堂ともつかない変てこりんな広い店だった。  
後に有名になったメリー(ヨコハマメリー)は、見すぼらしかったので店の中には入れて貰えず根岸家(ねぎしや)の回りをブラブラしていたが、店の中には娼婦が昼間からいた。本当に目が見えないのか分からなかったし、漢字でどう書くかも知らないが、チャイナドレスのメオマイの姉妹がいた。いい女だったが、値段を書くのはこのホームページの品位を損ねる。  
伊勢佐木町に“モガンボ”という大箱のクラブがあって、そこで演奏していたのが、後に“踊る指揮者”として人気になるスマイリー小原とスカイライナーズだ。スマイリー小原は本牧のクリフサイドにも出ていた。  

横浜に行くと俺はホテル・ニューグランドのバーで、ベリードライのマテニを気取って飲んだ。男に見栄と気取りがなかったら、タバコを喫む珍しい豚だと俺は思っている。
山手からちょっと目を上げると本牧で、そこには越田キャプテンが隠居なさっている。戦争中は二式大艇(四発の大型飛行艇)の操縦士で、戦後日本航空のパイロットになった方だ。今は晴れの日はゴルフ、降ればカラオケの日を過ごしておいでになる。  
前科モンの不良が、当時の日本航空でヌケヌケと四年間も飛んでいられたのは、越田キャプテンのような方がいてくださったからだ。 
赤灯と白灯の間を、小さな足舟(あしぶね)が往く。埠頭から碇泊している本船まで、人や物を運ぶのが役目だ。この足舟やタグボート、それに燃料や清水(せいすい)を運ぶバージをオペレイトしていたのは海洋社で、社長さんは須賀さんだった。元学士ラガーの須賀さんにはとても良くしていただいた。俺の乙種二等海技免状は、更新手続きをしなかったので昭和41年で失効してしまったのが残念だ。  
こんなに横浜には俺に良くしてくださった方たちがお出でなのに、なんで俺はゴロツキになってしまったんだろう。  
五つ違いで昭和7年生まれの兄は、高校生の頃から高島町の川崎造船に自分のヘルメットを置いていた。船が好きな兄は暇があると出掛けて行って、アルバイトではなく無給で手伝いをしていたのだ。
慶應を出て船会社に入ったその兄にも、チンピラだった俺は迷惑を掛けた。父も母も姉も同じだ。作家になれたのは、自分の才能や努力ではない。ただ大幸運に恵まれたからだ。  
もしあのまま足舟のスキッパーになっていたら、きっと俺もカタギの人生を歩んでいたのだろう。


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