第171回 『100グラム980円』


女房殿の奥歯の金冠が明治サイコロキャラメルを舐めていたら外れてしまったので、俺が定期的にお願いしているインプラントのチェックと歯のクリーニングの日と合わせて、一緒に吉祥寺の歯医者さんに出掛けた。  終わったのが午後三時半ころだったので、俺たちは予定していた通り紀ノ国屋で買い物をする。
歯医者さんに行くたびに、紀ノ国屋で買い物をするわけではない。たまたま年の暮れで、財布を持った(中身が幾ら入っているかは知らないが、少なくとも俺のより絶対多い)女房殿が一緒だからだ。
旨い物は値段が高いと知ってはいるが、老い耄れて生まれつきのケチに、シンニュウとケモノヘンが付いたような俺は、とても一人では紀ノ国屋に行けない。物理的な話ではない。歯医者さんを出て井の頭通りを吉祥寺に向かったら、イヤでも紀ノ国屋の前に出る。
途中で黒木メイサや安藤美姫に出喰わして、たちまち恋に落ちるなんて、女房殿に言わしたら青天の霹靂か、天主様の下し賜った罰みたいなことが起きなければ、ウニだって紀ノ国屋へ着く。
一人で紀ノ国屋へなかなか行けないのは、とても心理的でデリケートなものがネックになっている。
俺好みの旨い物が店中に積み上げてある紀ノ国屋は、一万円札を三枚は持っていなければ無造作に品物をカートに入れられない。三枚持っていたってロマノフのキャビアは、暗算せずにカートに抛り込めない。
俺たちは、大袈裟に言えば女房殿の金冠が外れた時から、歯医者さんの帰りに紀ノ国屋で牛肉の角切りを買うと決めていた。肉の量は1.5キロ。それを三通りに料理して食べる。一回目は具たくさんの朝鮮スープ、二回目はドミグラスソースでスチューにし、三回目は厚めに切って塩と胡椒だけ振って焼く。
ウチの近所で牛のバラ肉のブロックは、値段は高いが紀ノ国屋が一番旨い。しょっちゅうそんな贅沢は出来ないから、前から俺は楽しみにしていた。財布を持った女房殿と一緒に紀ノ国屋へ行く機会は、そう滅多には来ない。
値段は100グラム980円だった。俺は若い店員さんに「脂の多い所を一キロ半おくれ」と言う。日本人は脂身が嫌いだから、こんなことを言う客は俺だけだろう。肉はもちろん、マグロやブリだって脂身が旨いんだ。  女房殿が嫌がるに違いないと思うから、「脂の多いところでいいから、も少し安くしろ」なんてことは言わない。この歳だから言っていい場面と、いけない場面は心得ている。なぜ田舎っぺのどじょう野郎は、俺を防衛大臣にしなかったんだろ。

紀ノ国屋で牛肉やサラミやソーセージといった俺の大好物をしこたま買って、女房殿にめでたくお代を払わせて、そのあと俺たちはお雑煮用の合鴨を買いに、やはり吉祥寺のスーパー三浦屋へ行く。暗くなって急に人が増える。  
暮れの買い物は二人連れには向かない。人人人の波で、俺は女房殿とはぐれそうになって、少しウキウキする。他の爺ぃはきっと心細くなるのだろうが、俺は違う。こういう時に思いもかけない凄い出会いがあったりするんだ。永年の経験から。ヒヒヒ。
しかし残念ながら、はぐれなかった。  

どうぞ、皆様よいお年をお迎え下さい。


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