第170回 『霧のロンドン』


もうその当時のロンドンを知る人がほとんど鬼籍にお入りになったので、若い読者にはさぞ詰まらないだろうが、1953年のロンドンのことを思い出すまま勝手に書く。
1953年は昭和でいうと28年で、俺は16歳だった。ヒトラーが死に天皇陛下が降参したのが1945年だから、戦争が終わってまだ8年しか経っていない。  
表通りのオックスフォードストリートにもリージェンツストリートにも空襲の焼け跡がそのまま残っていた。  
当時俺が喫んでいたタバコは、コルクの吸い口が付いていた「クレイヴンA」、それに両切りの「カプスタン」と「プレイヤーズナンバースリー」だった。太くて長い「ロイヤリティー」という紙巻きの両切りは、ロンドンでしか見たことがなかったが、2011年が終わろうとしている今、まだ売っているのだろうか?吸うと矢鱈と煙が入って来たロイヤリティーだが、旨かったという覚えはまるでない。どんな箱に入っていたかも全く覚えてないんだ。  
クリケットの試合場はローズで、家から200メートルほどの所だった。番地で言えばNWの8あたり、ケンジントンだったと思う。そしてラグビー場は郊外のトウィッケナム。ドッグレースはワイトシティーとハリンゲイトだ。  
ローズでやる一番の大試合は、ジェントルメンVSプレイヤーズで、これは全アマチュア対全プロフェッショナルスの対抗試合のことを言う。アマチュアがジェントルメンで、プロがプレイヤーズなのが、いかにもイギリス式で可笑しい。  
ラグビーの選手はラガーで、ラガーマンとかメンなんて言うのは日本だけだ。  
ドッグレース場もホワイトシティーと言うのは旅行者で、土地っ子はワイトシティーと発音する。いっとき通っていた寄宿学校がウインブルドンにあったのだが、これが俺はどうしてもうまく発音できなくて、切符を買うたびに毎度困り果てた。
1953年のロンドンは冬になると正に「霧の都」だった。その頃はどこの家でもフラットでも、一軒づつ独立したマントルピースで暖を取り、煙突から盛大にモクモク煙を出していたから、ロンドンの冬の霧はただの霧ではない。  
霧の濃い晩は大袈裟ではなく、自分の足の爪先が見えないのだ。赤い二階建てバスは、霧が深くなると車掌が、用意してあった松明に火を点けて、バスの前を下を確認しながらゆっくり歩く。そして運転手はギヤをロウに入れっぱなしでソロソロと動かすのだ。  
石炭や薪を使わなくなって、ロンドンの霧は薄くなったらしい。  

その頃のヤヤコシイお金の単位を、忘れてしまう寸前なので、少し長いけど記録しておく。  
交換レートは1ポンドが1008円だった。朝日新聞の森恭三支社長はアルバイトの俺に、1ポンドの日当を払ってくれ、NHKの藤倉修一さんは俺がラジオ番組に出ると5ポンドもくださった。(藤倉修一さんはNHK第一回紅白歌合戦の白組司会を務めた方だ。この時はエリザベス女王戴冠式中継でイギリスに滞在していた)  
ポンドの前に単位が三つもあって、シリングとペニーと、それにファージングだ。4ファージングが1ペニーで、12ペニーが1シリングになり、20シリングでやっと1ポンドになる。十進法じゃないところが覚えにくい。  
21シリングで1ギニーになるなんて、更にややこしい決まりもあった。なんでもちょっと高級な物がギニーだった覚えがある。普通の病院だと診察料はポンドで、女王様の侍医に診てもらうと、謝礼はギニーだったりすると言えばニュアンスが分かっていただけると思う。  
俺が贔屓にしていた洋品屋のオースティン・リードは値札がポンドだったが、シンプソンはギニーで表示してあったのだから、本当にイギリスは徹底した階級社会だ。  
コインの種類も、もうほとんど忘れかかっているのを懸命に思い出して書く。  
1ファージングと2ファージングは銅貨で、2ファージングはハーフペニーと呼ぶ。  
1ペニーは直径が2センチ近い大きな銅貨で、3ペンスは十角の青銅貨でスリーペンスではなく“スラッペンス”と言う。6ペンスから銀貨になる。1シリング2シリングと少しずつ大きくなって、最大のコインは2シリング6ペンスの“ハーフ・ア・クラウン”という奴だ。  
「イーヴニンパイパー・タッペンスヘイペニー」…夕刊を売っていた爺さんの声が響き渉る。イーヴニンパイパーは下町訛りで、イヴニングペーパー、つまり夕刊のことだ。それが2ペンスとハーフペニーだと言っているのだ。  
この頃オールドボンドストリートの若くて綺麗な街娼が、東京で言うチョンの間、ニューヨークの“クイッキー”で3ポンドだった。  
この1953年の約一年間、俺はソーホーの「トロカデロ」でバーテンダーをしていた。今の観光地になったソーホーじゃない。バーと風俗店 と娼婦とゴロツキの妖しい街だった頃だ。  
また日を改めて、思い出して書いておこうと思う。


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