第169回 『十二月八日の目玉焼き』

七十四歳の俺は、太平洋戦争の始まった日の朝のことをとてもよく覚えている。昭和十六年十二月八日だ。
その頃ウチの一家は、父正夫・母玉枝・長姉福久子・次姉恵子・兄博也、そして末っ子の俺という六人家族で、五反田の池田山に住んでいた。  
父は日本郵船のサラリーマンで、母は当時は極く普通だった専業主婦、二人の姉は森村学園、兄は白金小学校に通っていた。俺も確か森村幼稚園に行っていた記憶はあるのだが、理由は忘れたがその日は家にいたらしい。

その当時、母は父や子供を会社や学校に送り出した後、長い一間廊下を渡って祖母の暮らす母屋で朝御飯を一緒にいただくのが習慣だった。つまりウチの一家は母の実家の地所に住んでいたのだ。
祖母つまり母の実母は、そのころ既に祖父に先立たれた後家さんで、お女中さんを三人も四人も使って豪壮な母屋に悠々と住んでいた。革張りの安楽椅子のある読書室やピアノが二台も置かれているピアノ室、規格通りのビリヤード台が据えてある撞球室もあった凄いお屋敷だった。
テーブルにきちんとクロスが掛けてあるダイニングルームに母と一緒に入ると、俺はチラリとテーブルの上の皿を見て、待っていた祖母に「丹下左膳はイヤ」と言って片目を瞑って見せた。
目玉焼きが片目じゃイヤだ。両目つまり二個にしてくれということなのだが、なぜか普段は同じ冗談でもいつでも笑ってくれる祖母が、今日はそれどころではないというような引き締まった顔で母を見詰める。四歳だった俺は、何か大変なことが起こったらしいことだけは二人の気配で分かった。  
明治十年生まれの祖母は、ボストンにもロンドンにも住んでいたことのある、流暢な品のいい英語を喋る当時としては珍しい婆様だった。
母はそんな祖母の娘で、聖心女学校OGの“みこころ会”の名簿の最初の方に載っている人だ。確か四回生だから、母は曾野綾子さんや美智子皇后の大先輩だと言ったら、どうだ驚いたか。俺のことを元ゴロツキの前科モンだとバカにすると、代々木の練兵場で銃殺にしちゃうぞ。  

「とうとう始まっちゃいましたね」と、母が暗い声でいうと、祖母は「海軍さんは世界のことを御存知だけど、陸軍さんは神懸かりで勇ましいばかりだから、ヒットラーが威勢がいいのにつられたのよ」なんてきっぱり言ったのを俺は妙にはっきり覚えている。  
幼児は時として記憶が鮮明だから、侮って助平なことや内緒の話などを軽々しくしてはいけない。パールハーバーの奇襲に成功してNHKラジオも朝日新聞もバンザイバンザイで大変だったのだろうが、祖母と母は俺の前で「日本は負ける」とは口に出して言わなかったが、使用人にも悟られないように目と目でそう語り合っていた。  

昭和十八年、父が軍属としてシンガポールに出征し、翌年家族は祖母の熱海の別荘に疎開した。そして昭和二十年、池田山の家は東京大空襲で燃えてしまう。  
思い出したくもない日々が、延々と続いて昭和が終わる。老い耄れた俺は、恥ばかり多く他人さまに迷惑を掛け続けた昭和のことを、いまさらあれこれ思い返したくない。この二十年忘れようと務めて、上手い具合に大分忘れたのだが、時々ふと思い出してしまう。  
平成という年号になってもう二十三年になるらしいが、平成という言葉はいつまで経っても借り着を纏っているようで、まるで自分の中に入ってこない。この二十数年の間にも、金儲けをしたり、借金をしたり、滑ったり転んだりいろいろやってはいたはずなのだが、まるで自分の身になっていない。不思議だ。  
しかし今年もどうやら生き延びたらしい。どんどん日本の人気(ジンキ)は、卑しく浅ましくなり、まるで緩慢なロシアンルーレットをやっているみたいだ。  
あの日から七十年目の十二月八日が、またやってくる。 


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