第168回 『突然いろんなことが頭に浮かぶ』

急に寒くなったから、それまでTシャツでウロウロしていた俺も、仕方なく長袖のラグビージャージを着込む。  
連日の非人道的ダイエットで、体重は今現在90.8キロと当然のことながら下降線を維持している。女房殿は褒めもせず「74歳で90キロのデブなんてそう滅多にはいない」と呆れるのだが、バカヤロ見ていろ。年内に89キロを割って、2012年には必ずミドル級のリミットを割って見せる。  
俺は時々だが、とっくに忘れていた古い話を突然思い出す。60年前の黒越みどりチャンのことも、35年前のサラ・ボーンのことも、何の脈絡もなくフッと思い出すんだ。そして突然浮かび上がったそのことが、しばらく頭から離れない。  
歳をとると記憶の箱が、鍵が突然壊れたみたいに急にパッと開く。以前は、古い映画を見ていたらとか、学生時代の友人に会ったからなんて、何か刺激を受ける事柄があって、それに誘発されて古い記憶の扉が開くのだが、今は違う。本当にフッと頭に浮かぶんだ。  

今朝、草色の地味なジャージを着て朝御飯を食べていたら、三十年前に横須賀のネイビーサプライで買った、濃紺のピーコートを思い出した。米軍の水兵が着る短いダブルのコートだ。  
ゴロツキはそういうのを着ないが、作家の端くれになった当時の俺は喜んで買って、しょっちゅう着ていた。「まだ洋服箪笥の隅にあるかな?」と、俺が恐る恐る小さな声で訊いたら、「そんなの見たことがない」と、女房殿は普通の声ではっきり答えた。  
そしてトーストにバターを塗りながら、「あたしの前の代の話でしょう」と、少し声のトーンが変わる。女房殿と一緒に暮らし始めたのは、今から23年も前だ。俺は咄嗟にピーコートのことを、頭の中から追い払って綺麗さっぱり忘れることにする。  
学者はいくら研究費を遣っても、地震や津波の予知が出来ないが、俺は女房殿の声のトーンで、これから起こることの全てが予知出来るんだ。誰も褒めてくれないから、仕方なく俺は窓を開けて小声で呟く。  
貧乏だった俺が着始めて、そのせいでもないだろうが急に流行ったピーコートも、今では……と、ここまで書いた時、文部科学省の会議室で読売ジャイアンツの清武という男が、ナベツネ弾劾会見をやりだしたと、女房殿から一報があって中断。  

バカヤロ。こんな老害爺ぃとボンクラ番頭の口喧嘩は、読売新聞の小使い室でやればいいんだ。文科省の会議室は誰にでも貸してくれるらしいから、今度の麻雀大会はここでやろう。  

本当にくだらないオバカ読売の話から、俺は本題に戻る。  
ダッフルコートもピーコートも珍しくなって、今年は誰も着ないだろう。ソフトを被る人も、五十年前は大勢いたのに、今は三毛猫の牡ぐらい少なくなった。1970年代の映画を見ると、主役も脇役も実によく煙草を喫む。ハンフリー・ボガードもロバート・テーラーも、とても旨そうに両切りの煙草を喫んだ。今は小栗旬もキムタクも喫まない。  
ちょっと以前は、居酒屋で呑んでいる男が、何をしている人だか、髪の毛を見れば察しが付いた。職人は角刈りで、役人はポマードで七三に分けていた。  
今では脳天から爪先までみんな一緒で、同じ言葉を喋る。俺が若い頃は、テキ屋さんはテキ屋さんの言葉で喋り、博徒は博徒の言葉で世間噺をし、ミュージシャンはミュージシャンの言葉でギャラの交渉をしていた。それが今では言葉で察しが付けられない。  
俺の若い頃は、火力や水力でタービンを回して作った電気でみんな暮らしていた。後のことを考えずに、原子力でタービンを回すようになって、どんどん世間が変わった。素敵な人は姿を消して、電力会社のバケモノとそれに胡麻を擂る乞食だけが目立つ。


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