第166回 『楽なフォームは行儀が悪い』

俺はもうとっくに小説家とか作家なんて肩書きは降ろして、本を読み耽る読書人になっている。 
上手い作家が手抜きをせずに書いた本は、なんと面白いものか。粗雑で下手な奴は、俺も含めて本なんか書くな。九月の末に知らない方が、矢鱈と厚くて重い本を送って来た。新人作家のデビュー作だ。著者がどんな想いでいるか、俺はよく知っているので読まずに抛っておくわけにはいかない。しかし最後まで読んで、貴重な人生の残り時間が無為に使われたことに俺は溜息をついた。  
今年の夏は司馬遼太郎ばかり集中して読んだ。上手くて面白い。俺は司馬遼太郎の“滅び行く者の哀れとムナシサ”に、痺れている。ムナシサを俺は暫く考えてから片仮名で書いた。まだ何処かに作家だった名残りがある。普通だったら躊躇いもなく、“空しさ”と書くだろう。  
女房殿は今、高村薫の文庫版の『マークスの山』を読んでいて、夕御飯が終わるとナイター中継を見ていた俺に、「本が読みたいから寝室に行く」と言う。俺は詰まらないテレビの前から立って、自分の寝室で続きが読みたい女房殿の気持がよく分かる。面白い本を読んでいる時は、恋をした時と一緒なのだ。  
俺は思い立って文庫で四十五冊もある塩野七生の『ローマ人の物語』を読み始めた。隠居したらゆっくり読むと決めていた、岩波書店の『大航海時代叢書』を差し置いて、四十五冊に取り組んだのは、一つには文庫本だからだ。  
七十四歳の俺も五十七歳の女房殿も、本を読むのはほとんど寝室だ。ちゃんと椅子に坐って読むのは汽車か飛行機の中だけで、普段はベッドに寝っ転がって読む。子供を育てていたら、こんな行儀の悪いことは出来なかっただろう。示しがつかない。しかしこの方が楽で、集中して読めて中身が頭に入るんだから仕方がない。四六版の本は重くて、一時間もすると手が痛くなる。   

昼御飯にラーメンを食べようと表に出たら、角の家のオバちゃんに、『ひきがえる』というタイトルの絵本を貸していただいた。オバちゃんが描いた絵本ではない。俺が以前、ウチの玄関脇のタタミ一畳ほどの植え込みに住み着いたカエルの不思議について喋ったのだ。  
どこでオタマジャクシからカエルになって、一体どこから舗装された住宅街をピョンピョン跳ねながらやって来たのか?二匹で仲良くやって来た気配はない。果たして運良く連れ合いに巡り会えるのか?いつまで俺んちを根城にしているんだ?…といった話をしたのをオバちゃんは覚えていてくれたんだ。ウチの御町内にはいい方がお住まいになっている。  

そういえば先月も町内をトコトコ歩いていたら、見知らぬおばあちゃんに声を掛けられて、「アベさんですよね。ずいぶん色が白いんですね」と、唐突に言われた。一年ほど前にも知り合いに「色白だね」と言われた。  
どうして突然そんなことを言われるのか不思議だったのだが、考えてみれば外を出歩かなくなったのだ。夏のゴルフなんて何年もやっていないし、競馬も競輪も行かない。朝から晩まで家に引き籠もっているなんて、若い頃だったら考えられなかった。  
用があっても無くても街をブラついていなければ、金も女も仕事も向こうから飛び込んで来てはくれないのだ。見栄と気取りで全身を飾り、アンテナを張り巡らして、クンクン鼻を利かせていなければ生きていけなかった。  
つくづく歳を取ったのだ。これからは「色白のナオちゃん」と呼んでくれ。  

さぁ今日も俺はこれから夕御飯まで、寝室でひきがえるの絵本と、『ローマ人の物語』を読む。

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