第162回 『ある日の昼飯』

この20年ほど俺は一日二食しか御飯を食べない。毎朝10時から12時の間に一回目の御飯を食べ、二回目は夕方の5時半から6時の間と決まっている。
女房殿は亭主に合わせた二食だが、家で二番目に偉いウニは夜の11時ごろ夜食に、カニ棒を二本いただく。二人と一匹の世帯で三番目に偉い俺は、ウニの旨そうに食べるカニ棒を横目で見ながら、ハイボールか生マッコリかビールか“麦とホップ”を寝酒に呑む。しかしこれは寝酒といっても眠る為ではない。
それから3階の寝室に入った俺は、すぐには眠らずに、テレビのヒストリーチャンネルや映画、たまには蒼井そらチャンのDVDを夜中の3時ころまで見る。女房の寝室は3.6メートルも離れているから、余程耳を澄まさないと音は聞こえない。黒人のポルノは男も女もライオンみたいに大袈裟に絶叫するけど、蒼井そらチャンは極く密やかな呻き声しか洩らさないから大丈夫なのだ。ウニは二階のソファーで毎晩ひとりで勝手に眠る。
何でも野放図にしているように見えても、俺は細かく気を遣っているんだ。そうでもなきゃ四分の一世紀も一緒に住めるもんか。
テレビばかり見ているわけじゃない。本も読む。今は「坂の上の雲」の文庫本を買って来て、夢中になって読んでいる。父親の形見分けで貰った、昭和40年代発行の単行本が本棚にあるのだが、寝っころがってベッドで読むのには重すぎるから文庫本を買ったんだ。

一回目のお昼御飯で俺はほぼ、一日分の栄養を採るようにしている。夕方の二回目の御飯は、禅寺の坊主みたいに極く軽いんだ。一日平均百歩くらいしか歩かず、薪割りも風呂掃除もしない俺だから、食べたいだけ食べたらすぐ百キロを越えてしまう。自慢じゃないけど今現在90キロしかない。誰も褒めてくれないから、自分で「凄いッ」と心の中で叫ぶ。
だから一回目のお昼御飯が、ディナーというかメインイベントになる。以前にも書いたことだが、毎晩ウニにカニ棒をやりながら、俺は女房殿に明朝の献立を訊く。ザッとではない根掘り葉掘りしつこく訊く。魚の塩焼きなら、蓼酢か大根おろしかまで訊くんだから、女房殿がウザがっているのを知っている。俺は他人の胸の内が分かる男なのだ。
しかし生死に関わる問題だから、連れ合いが面倒くさがろうが、俺は安全・保安院の説明よりずっと熱心に訊くんだ。
俺は古稀をとっくに過ぎた、かくれもない老い耄れだ。「ある日、アベは起きて来ませんでした」なんてことも、あればある歳だ。悪夢にウナされてそのまま脳梗塞や心筋梗塞で死んじまった年寄りは、報告しようがないだけで大勢いると俺は睨んでいる。
毎日夜中の3時ころ猛烈に腹が空くが、翌朝の御飯のことだけ必死に考えてなんとか眠りに就く。そして眠ったままにはならずに、毎朝ちゃんと爽やかに目覚める。

週に一度くらいお昼御飯を外で食べる。食べたい物はひととおり揃っているからいい街だ。昼メシ時は勤め人で混むから、俺たちは11時半に店に着くように家を出る。ウニはお留守番だ。
空き巣が入ったらウニは、勇敢に引っ掻き噛み付いてTKOするに決まっている。俺の手の甲と二の腕は、ウニの爪跡と歯形で無惨になっている。いちいち弁解するわけにもいかないが、見た女は俺のことをマゾ爺ぃだと思うだろう。
今日は「はなまるうどん」に行った。俺は中の温玉ぶっかけの冷やしに、もうひとつ玉子を追加して、かき揚げとイカとカボチャの天麩羅を取った。中玉というのはうどんの量で、普通の量ということだ。ここはいろんなものをオプションで加えられるのがいい。俺はついあれもこれもと取り過ぎて女房殿に叱られる。
女房殿はこの暑いのに玉子ひとつの中玉にかき揚げを添えて、それに熱いおつゆを掛けてもらう。食べ始めてすぐおでこに汗の玉が沸く。それから女房殿は、箸とハンカチを交互に遣ってうどんを食べた。
表の温度は35度を超えている。俺は大変な努力をしている連れ合いに、御褒美にイカ天を半分あげた。ナイフなんか勿論ないし箸では切れない。他人の眼を盗んで、俺は噛み切ってあげたんだ。“他人の眼を盗んで六十年”の俺だから、こんなことをさせれば菅や枝野なんかよりずっと上手い。
その内、松下政経塾から講師の声が掛かるに違いないが、女房殿のやりくりと始末のお陰で喰うに困らないから、そんな泥棒の巣みたいな所にはギャラがいくらでも行かないと決めている。
結構お腹いっぱいになったのに、二人で1113円のお昼御飯だった。


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