第152回 『地震だ!』

一階の奥にある仕事部屋の、パソコンの前に坐っていたら、椅子が不自然に揺れた。地震だ。 ウチでまずしなければならない事は、飼い猫のウニの確保で、非常持ち出しなんか何もない。
俺は内線電話で二階にいた女房殿に連絡した。女房殿はすぐウニを掬い取って、胸に抱えたらしい。落ち着いた声で「地震ね。ウニは大丈夫」と言う。この時はまだ音楽で言えば序曲、セックスだったら前戯だったが、内線電話を切ってすぐ本番が始まった。  
尋常ではない揺れだ。もっと揺れたら八年前に買った家は、ニュージーランドみたいにパンケーキ状態になる。  
女房殿とウニは三枚重ねのパンケーキの二枚目だが、俺は一番下だ。七十四というラッキーナンバーを目前にして、遂に命を地震に取られることになったとマジに思った。  
俺は椅子から立ち上がりも出来ずに凍りつく。本棚から本が飛び出し、ブーメランみたいに重ねてあったCDが室内を飛ぶ。山下洋輔やエロール・ガーナーだけじゃない。実は吉田ケンジョーに貰った助平CDも、これは本性を出して妖しげに舞う。  
ちばてつやさんがサインしてくださった「あしたのジョー」のマグカップが、飾ってあった棚から弾け飛んで、床で音を発して割れた。広島カープの長谷川良平さんのサインボールは、椅子ごとクルリと振り向いた俺が床で弾む前に逆シングルでキャッチした。  
ウニを抱いて降りて来た女房殿が、「あなた大丈夫?」と、二十五年間で六回も聞いたセリフをまた言う。心配してくれているのだから、文句を言ったらバチが当たる。  
「俺は世界でも五本の指に入る運のいい男なんだ。どんなことがあっても俺は“大丈夫”なんだ。一緒にいるお前たちも大丈夫のお裾分けなんだ。安心しろ」と、俺は落ち着き払って言った。 女房殿は「揺れがおさまったら一階から三階まで部屋を全部チェックするわ」と固い顔で言ったが、ウニは俺の言葉を聞いて安心して普段の可愛い顔になる。  
地震から三時間、我が家の被害は俺の三階の寝室の本棚が倒れてテレビを吹っ飛ばして壊れたのと、二階のステンドグラス入りのパーテーションが倒れてガラスが割れたくらいだった。  
東北と北関東の惨状をテレビで見て心が痛む。お気の毒で涙が零れる。手伝いに行っても、足手まといになって迷惑な老い耄れだ。ただ祈るだけだが、俺にはすがる神がいないのだ。本当に言葉を失う。

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