第149回 『深夜映画』

三日前は「翼よあれがパリの灯だ」、おとといは「インディペンデンス・デイ」そして昨日が「厳窟王」と、連日真夜中に寝室のテレビで、古い外国映画を見る。深夜一時ごろから始まって三時くらいまでかかるのだから、俺みたいな暇な半隠居でなければとてもエンドマークまで見ていられないだろう。
俺は映画が好きだから、失神寸前の空腹に耐えながら、お粗末な映画でも終わりまで見る。しかし、他の二本は何回見ても面白いのだが、俺の好きな小説を三本選べと言われれば必ず入る、あれほど面白い原作「モンテクリスト伯」なのに、映画になるとどれを見ても詰まらないのは何故だろう。
脚本家、俳優、監督それに制作費に映画の善し悪しの全てが懸かっていると、俺は思っている。今までに四〜五本、いろんな時代のいろんな俳優で作られた、映画や長編テレビ映画で「モンテクリスト伯」や「厳窟王」を見ているのだが、“これが極めつけだ!”という作品に出会ったことがない。どれも、もう一つというくらいがせいぜいで、おおむね腹が立つ駄作なのだ。
何時、誤嚥性肺炎(俺はこれか肺癌でクタバルと、医師だから自分で分かっている)で死ぬか分からない歳なので、原作の八掛けの出来でいいから、よく出来た面白い「モンテクリスト伯」が見たいと願っている。昨晩のはいいところが一つもなかった。

詰まらない映画を終わりまで見てしまった時は、不味いものを喰ってしまった時と一緒で、俺は不機嫌になる。
昭和五十四年に前刑を了えて自由の身になった時、俺は「どうしても女の機嫌を取らなければいけないとか、これを口にしなけば餓死すると思った時以外は、不本意な食べ物や美味しくないと分かっているものを食べない」と、固く心に決めた。この身体だから三日ぐらいは、水だけ飲んでいれば命を失うことはない。
俺はこの十年間、午前十時半ごろのブランチと、夕方六時の二回しか御飯を食べない。酒は極端に少なくなって、毎日缶ビールを二缶か焼酎かウィスキーを、巨きなグラスで一杯オンザロックスで呑むぐらいだ。タバコはショートホープを、原稿を書く日で二十本、書かない日で十五本しか喫まない。
こんなに折り合いが付いた年寄りなのに、食欲だけは若い頃と全く変わらずメチャクチャ旺盛なのはなぜだろう。
昨日は女房殿のお供で駅前の食品スーパーに行って、氷見の漁師が「今年は覚えがないほど大漁だ」という寒鰤を買って来て、刺身と鰤大根にして食べた。
日本酒は慶應高校で同級だった京野勉さんが送ってくれた“美酒爛漫”で、女房殿が正一合のグラスに注いでくれて、「大事に呑むのよ。これ一杯だけでお代わりはないのよ」と念を突く。俺たち夫婦は喋る言葉が、他の夫婦とちょっと違う。念は「押す」のではなくて、「突く」んだ。
最近の俺は日本酒に限って絡み酒になって、揚げ句フットワークが乱れて躓いたり転んだりするから、女房殿に一杯だけと念を突かれても仕様がない。
ジェフは、ジャックは、寒鰤を食べているかと、外国人の旧友を想う。俺は日本に生まれた幸せを、旨い寒鰤を食べた時に実感する。寒鰤の旨さだけは、東条英機も自民党のカスも、それに鳩山由紀夫も菅直人も壊せなかった。
女房殿は空になったグラスに半分だけ、オマケを注いでくれる。テーブルの上にうずくまっていたウニが、目尻と髭で「パパ良かったね」と言ったのだが、もちろん分かったのは俺だけだ。 さあ、今晩の深夜映画はなんだろう?“当たり”だといいなと願いながら、俺は三階の寝室に上がった。


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