第143回 『ザラメ煎餅』

女房殿の買い物に、俺は散歩を兼ねて時々ついて行く。たまにこれをやらないと、シャケの切り身がいくらなのか、知らない爺いになってしまう。とは言っても、シャケの切り身にもピンからキリまでいろいろあって、黒木メイサと片山さつきほど違うと普通の爺いは知らないだろう。
俺はスーパーマーケットが大好きだから、エリンギも鯨のベーコンの値段も知っているし、この夏の猛暑のせいで9月に野菜の値段が高騰したのも知っている。
阿佐ヶ谷の駅前にあるビルの地下に東急ストアがあったのだが、春先に店じまいしてしまった。秋になってそこにイトーヨーカ堂が入って、先日オープンしたと女房殿が言っていたのだが、今日は其処へ行くと女房殿は俺に告げた。法廷と一緒で、何時でも被告だった俺は、何も異議は唱えず、ただ「ハイ」と頷くだけだ。
この二十数年、いつでもどんな場面でも、女房殿が社長で法務大臣も兼ねている絶対専制君主なんだから、クーデターも革命も起こせたもんじゃない。四歳のウニと七十三歳の俺は、ただモクモクと従って日々を送っている。政権を奪い返す相談もしなければ、家出なんか考えたこともない。

東急ストアがイトーヨーカ堂に変わって、良かった。同じスペースなのに品揃えが断然豊富で素敵になった。俺は目を奪われて、並べてあるほとんど一品ごとに立ち止まる。メイプルシロップだってコンビーフだって、何種類もあるから大変なのだ。
ワゴンを押した女房殿は、自分ちの裏庭でも歩くように、左右の商品棚をチラリチラリと見るだけで、秒速十メートルの猛スピードで、食べ物に見入っている俺を置き去りにしてズンズン行ってしまう。
旨そうなものを見付けた俺が、値段までちゃんと確かめた上で「ねぇ、買って、買って」と叫んだ時には、もう女房殿は遙か先の野菜売り場かなんかに行っている。背の高い女だから頭の先は見えるのだが、赤い帽子でも被せておかなければ、俺はスーパーの中で迷子じゃなくて迷爺いになっちまう。
オフクロは昔俺が幼児の頃、迷子になっても何とかなるように番地を暗記させた。「品川区五反田5の57」、今でもちゃんと覚えている。

お菓子売り場でザラメが振ってある大きな煎餅の袋を、棚から取ってワゴンの中に入れようとしたら、なんと女房殿は二十メートルも離れた所にいる。仕方がないから走って煎餅の袋を持って行ったら、「これはカロリーが高いからダメッ」と言われてしまった。
ウニは、「ダメ」と「イケマセン」を最初に覚えた。俺もこれで二十二〜三年、同じ言葉を何度聞いたことか…。「ダメ」と言われれば棚に戻すしかないのだが、棚は二十メートルも離れているのだから、これをやるのには勇気がいるんだ。誰かに柱の陰から見られていたら、メチャメチャ格好が悪い。
ザラメの付いた大きな厚い煎餅の袋をそっと棚に戻したあと、俺は今度は魚売り場でイワシの生干しを見付けた。これなら「ダメ」とは言われない筈だ。
翌朝、このイワシが大根おろしと一緒にちゃんと食卓に出て来た。これは宮崎あおいちゃんぐらい、素晴らしく美味しい。ウニにもほんの少し分けてあげたら、ウニは珍しく尻尾を震わせて、「ヤッタね」なんて俺に言った。


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