第140回 『月舎の生粉打ち』

両目の手術、爺いの夏籠もりと続いたので、三ヶ月乗らなかった真っ赤なニッサンは、つむじを曲げてセルモーターが回らない。JAFがすぐ来て直してくれたので、俺たちは本当に久しぶりで八ヶ岳の山小屋に行く。
助手席の女房殿は俺の老い耄れ具合と、それに手術後初めての運転が心配で、いつもの固い顔を更にフラットにしている。女は怒ったり緊張すると、どんなに彫りの深い人でも顔が平べったくなるのだ。
木曜日に出かけて月曜日に帰って来る今回の八ヶ岳で、俺のする仕事は山田詠美さんの小説を読むことだけだ。某雑誌で詠美さんと対談をするから、読んでおかないとコーヒーカップを投げられる。この綺麗な女流は三十年前から、怒るとコーヒーカップを中身が入ったまま投げつけるので有名なんだ。
この歳でマグカップでもぶつけられたら、当たりどころによってはヤバイことになる。ところで俺の場合、何かあったら保護責任者は誰なのだろう。ウチで一番偉いのは女房で次はウニだ。じゃぁ俺の保護責任者はウニか? しかしこの場合は、詠美さんか雑誌の編集者かもしれない。

ヤマツツジの花が咲く頃に来たっきり三ヶ月近く来なかった山小屋は、埃がうっすら積もり、どこから入り込んだのかバッタやコオロギが干からびて死んでいる。その床の上を、尻尾を真っ直ぐにおったてて顔を低くして、匂いを嗅ぎながらウロつくウニの後を、女房殿の掃除機が追いかける
掃除とウニの安全確認が終わるまで、俺はビールのグラスを持ったままベランダに出された。建って11年経った山小屋だから、屋根のない吹きさらしのベランダの一部が壊れたのだが、地元の棟梁、小菅さんが綺麗に直してくれていた。(女房とウニは俺の体重のせいだと思っているのが不愉快だ)
小菅さんは、駐車場から玄関まで上がる枕木の階段も補強してくれて、土が流れて凹んだ所に砂利を埋めてくれた。細かいところまで目を配ってくれて本当に有り難い。
小菅さんは近所に自生しているミョウガを持ってきて下さった。女房殿がすぐ浅漬けにして食べてみたが、これが東京の食品スーパーで買ったものとは、まるで別な野菜かと思うほど鮮烈な香りがして感動的に旨い。
ウニは匂いを嗅いだだけで舐めはしなかった。ウニは何でも俺が食べているものを、まず匂いを嗅いでみて、それから舌でペロリと舐め、次に口を大きく開けてガブリとやる。どうもミョウガは嗅いだ段階で、「僕、これダメ」と判断したらしい。ウニはシメサバでもおでんの大根でも、何でも一応匂いを嗅いでみるのが可愛い。黒木メイサちゃんでも蒼井そらちゃんでも、ウニは匂いを嗅いで大丈夫となれば、舐めてみるのだろう。俺に似て慎重な性格だ。
根株を手に入れて、俺は東京の自宅にミョウガを植える。ウニも女房殿も、手伝わなくてもいい。俺ひとりで旨いミョウガを育てる。

朝起きていい天気だったから、近所の月舎(つきや)に蕎麦を食べに行く。ウニはお留守番。月舎の生粉(きこ)打ちは旨い。ダイエットでなければ、俺は十枚でも食べる。蕎麦はおつゆのダシが命だ。月舎は申し分ない。
今度は夜かせめて夕方に行って、生粉打ちで酒が呑みたいのだが、下戸の女房殿は可哀相だとつくづく思う。
車で出たついでに女房殿のリクエストで「まきば公園」に行った。ここは標高1300メートルくらいか?雄大な八ヶ岳山麓と牧草地の馬や山羊を見ながら、ソフトクリームを食べた。ウニが知ったらさぞ怒るだろう、ザマミロ。
山小屋に戻って、ベランダの餌箱にヒマワリの種を入れたら、ヤマガラとシジュウカラが次々とやって来てついばむ。小鳥のいるベランダには平和がある。こちらに会釈もウィンクもしなくても許してやろう。


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