第106回 『革命家』

若松孝二監督の「実録・連合赤軍」という長い映画を見た。
ラストに、あさま山荘に立て籠もって警察に打ち込まれた催涙ガスに、涙で目を赤くしながら、ライフルを握り締めた少年が、「俺たちは勇気が無かったんだ」と絶叫するシーンがある。
なぜ、総括という名のリンチ殺人をおこなうリーダー森恒夫と永田洋子に、革命を志す若者は抗えなかったのか。少年は無為に殺された、何人もの仲間の凄惨な死(その中には少年の実の兄もいた)を見てきた。
警官隊に十重二十重に包囲され、放水でグチャグチャになった山荘の中で、この期に及んで決意表明をし、異議ナシを繰り返す他の四人の兵士たちに、当時16歳だった少年が何度も叫ぶのだ。

このシーンに若松孝二の想いが籠もっていると、俺は思った。 俺は大学も行かなかったし、1960年〜1970年代は渡世の真っ只中で、学生運動や安保闘争とは無縁の世界に生きていた。当時まだポルノを撮っていた若松孝二監督の事務所は、俺がやっていた「サウサリト」というレストランが入っていた青山のビルの上の階にあった。付き合いは無かったが、知らぬ仲ではない。

連合赤軍の兵士の城崎勉とは、1975年から府中刑務所の北部第五工場の役席(エキセキ)が隣りで、よく話をした。刑務所のアンケートで、用紙の職業欄に城崎が「革命家」と書いたのが忘れられない。
城崎は板にダボ穴を開ける“ボーリングマシン”、俺はその隣りで“リップソー”という機械で材木を縦に挽く作業をしていた。
城崎は人柄のいい真面目な青年で、ゴロツキだった俺に「とにかく日本は、全ての権力を一旦全部破壊して造り直さなければいけません。それが革命というもので、自分は一生をそれに捧げます」と、真ん丸の眼鏡の奥にある綺麗に澄んだ瞳を輝かせて語ったのだ。

そして、懲役十年の刑期がまだ五年も残っていた1977年の夏に突然「痔の手術がしたいので、アベさん医務の順番を繰り上げられないでしょうか?」と城崎が俺に訊いてきた。 これは懲役の常識ではない。「夏に手術をすると膿む危険がある。刑務所の医者なんかいい加減なんだ。痛みが非道くて耐えられないならともかく、そうじゃないのなら冬まで待て。どうせまだ嫌になるほど此処にいなきゃならないんだから」と俺が言ったら、城崎は、「いえ、急いでいるんです」と言って、俺の目を真剣な表情で覗いた。
何か事情があると思って、俺は手術の順番に城崎を割り込ませた。二週間ほどして元気に工場に戻って来た城崎に、俺が「見せろ」と言ったら、獄衣のズボンをズリ下げて綺麗なピンクの尻の穴をみせると、「お陰さまで、すっかり良くなりました」と城崎は嬉しそうに礼を言ったのだ。城崎は間違いなく、その後に起こる日本いや世界を揺るがせた大事件のことを、少なくとも半年も前に知っていた。

その年1977年9月28日、日本赤軍が“ダッカ日航機ハイジャック事件”を起こす。人質となっていた乗客との交換条件で、城崎は日本政府が用意した十六億円をブラ提げて、羽田に用意させたジェット機で、重信房子の待つアラビアに飛んで行った。
これは脱獄や俺たちが言うウサギではない。役人やマスコミは「超法規出獄」という新しい言葉を遣った。俺たちはただただあっけに取られて、府中刑務所から羽田に向かって飛び立つヘリコプターの爆音を聞いていた。
それから19年経って、城崎はネパールで拘束された。ジャカルタのアメリカ大使館にロケットを撃ち込んだ事件で終身刑を言い渡され、今はアメリカの刑務所で服役している。
城崎勉が今何を想い、何を支えに生きているのか俺には分からない。でも城崎は死ぬまで革命家なのだろう。俺はこの男を凄いと思う。
 

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